弦絶えし雪の夜、恋が散る

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弦絶えし雪の夜、恋が散る

GoodNovel 完結

「皇太子殿下、本当に江殿に隠れて、彼女の心臓の生血を抉り取り、慕殿の治療に用いるおつもりですか?」 短剣を握る老侍医の手は震え、揺らめく蝋燭の火が彼の額に浮かぶ冷や汗を照らし出していた。 寝台では、江清瑟(こう せいしつ)の華奢な体が豪奢な錦の夜着に沈み込み、その顔色は冬の初雪のように蒼白だった。 謝長離(しゃ ちょうり)の口調は、殿舎の外に積もる雪よりも冷酷であった。 「いかにも!余は既に彼女に麻酔薬を飲ませた。今は昏睡しており、目を覚ますことはない。早く手はずを整えよ!」

チャプター (1)

第1章

「皇太子殿下、本当に江殿に隠れて、彼女の心臓の生血を抉り取り、慕殿の治療に用いるおつもりですか?」 短剣を握る老侍医の手は震え、揺らめく蝋燭の火が彼の額に浮かぶ冷や汗を照らし出していた。 寝台では、江清瑟(こう せいしつ)の華奢な体が豪奢な錦の夜着に沈み込み、その顔色は冬の初雪のように蒼白だった。 謝長離(しゃ ちょうり)の口調は、殿舎の外に積もる雪よりも冷酷であった。 「いかにも!余は既に彼女に麻酔薬を飲ませた。今は昏睡しており、目を覚ますことはない。早く手はずを整えよ!」 第1話 老侍医は地に平伏し、耐えきれずに懇願した。 「殿下、私めには到底このような残酷な真似はできません……江殿はかつて殿下の重い流罪に付き従い、すでに病身で……この上、心臓の血まで抜けば、目覚めた後は想像を絶する苦痛に苛まれることでしょう……」 「黙れ!」 長離が声を荒げて遮ると、その目には人を震え上がらせるほどの底冷えするような冷酷さが宿っていた。 「お前がやらぬというなら、余が自ら下す!」 彼は侍医の手から短剣を奪い取ると、躊躇うことなく清瑟の胸元へと突き立てた。 「くっ……」 彼女の指先が微かに震えたが、それに気づく者は誰もいなかった。 鮮血が溢れ出し、長離はすかさず玉の椀でそれを受け止めた。椀が満たされると、彼は振り返ることもなくその場を立ち去った。 侍医もよろめきながらその後を追い、重々しい音を立てて殿舎の扉が閉ざされると、足音は次第に遠ざかっていった。 寝台の上で、清瑟はゆっくりと目を開けた。冷や汗がすっかり鬢の毛を濡らしている。 彼女は痛みの呻き声を漏らさぬよう、下唇を強く噛み締めた。 痛い、痛すぎる…… 彼女が全く昏睡などしていなかったことなど、誰も知らない。 約一時間ほど前、長離は自らの手で極上の甘い薬湯を彼女に運んできた。彼女は一口飲んだ途端に異変に気づき、無理やり吐き出したが、まさかその中に麻酔薬が仕込まれていたとは思いもしなかった。 自分を眠らせ、その胸から生血を抉り出して慕流蛍(ぼ りゅうけい)を救うために!? 彼女は震える手を持ち上げ、胸元の痛ましい傷口を押さえたが、指の隙間からは未だに血が滲み出し、白い寝衣を赤く染め上げていく。 なんて滑稽なのだろう…… 三年前、皇太子である長離は帝の逆鱗に触れて廃嫡され、流刑に処された。朝廷の百官はこぞって彼を避け、かつて彼を取り巻いていた王侯貴族の令嬢たちも蛇蝎のごとく彼を忌み嫌った。 幼馴染の許婚であった流蛍でさえ、巻き添えを恐れて公衆の面前で婚約を破棄したのだ。 ただ自分だけが、一族の猛反対を押し切り、執拗に彼の後を追ったというのに! 流刑地への道中、山賊に襲われた際には清瑟が身を挺して刃を受け、極寒の冬に飢えに苦しんだ際には自分の食糧をすべて彼に譲り、彼が高熱で生死を彷徨った際には自らの手首を切って流した血を、薬を服用するための水として彼に飲ませた…… 彼と共に腐りかけの飯を食らい、藁の山で眠り、流刑の風雪に耐え抜いたのだ。 だが今、彼が東宮の位に復帰するや否や、流蛍が宮城の門前で跪き、苦しい事情を涙ながらに訴えただけで、彼はほだされてしまった。あろうことか、清瑟の心臓の血を抉り取ってまで彼女を救おうとするとは! 清瑟はよろめきながら寝台を降りた。一歩踏み出すごとに刃の上を歩くようで、動くたびに胸の傷が引き裂かれるように痛んだが、心に負った傷の万分の一にも満たなかった。 流蛍の殿舎は明々と灯りがともっていた。半ば開いた窓格子越しに、長離が慎重に例の生血を流蛍の口に含ませているのが見えた。 「痛い……」 流蛍は目を固く閉じ、大粒の涙を浮かべていた。 「長離様、すごく痛い……」 長離の体が強張った。 「耐えるんだ、すぐに良くなる」 血を飲み干した慕流蛍が彼の胸に寄りかかると、案の定その顔色は見違えるほど良くなった。しばらくして、彼女はゆっくりと目を覚まし、視界に入ったのは心配に満ちた長離の瞳だった。 「長離様!」 彼女は身を震わせ、すがりつくように彼の袖を掴んだ。 「私を許してくださったのね?私が悪かったわ、あの時は私が臆病すぎて、苦労に耐えられなかったの……でも後悔しているわ、本当に後悔しているの!もしあなたが私を捨てると言うなら、いっそ死んでしまう!」 そう言うなり、彼女は壁に頭を打ち付けようとした。 「やめろ!」 長離は流蛍を強く引き寄せると、彼女を寝台に押し倒し、荒々しく唇を奪った。 それは優しい口づけなどではなく、怒りと苦痛、そしてやり場のない感情の捌け口であった。 彼は何度も何度も口づけ、まるで彼女の存在を自身の存在に溶け込ませようとするかのようだった。再び口を開いた時、その声には果てしない苦痛が押し殺されていた。 「流蛍、お前は余がお前を愛しているのをいいことに…… 余にはお前が必要だ、お前を手放せるわけがなかろう?余は昨日、すでに父上に勅命を乞うた。お前を清瑟と同じ日に東宮へと輿入れさせるとな。彼女を正妃とし、お前を側妃とする」 「側妃ですって?」 慕流蛍は今にも泣き出しそうになった。 「長離様、一生添い遂げると、私だけを愛すると約束してくださったのに」 「清瑟は余のためにあまりに多くを犠牲にした。彼女を見捨てることなどできぬのだ。お前はただ、余の心にあるのはお前だけだと分かってさえいればよい!」 そう言うと、彼は彼女をきつく抱きしめ、薄い唇を彼女の鎖骨へと這わせた。 その深い愛情を湛えた瞳は、この三年間のあらゆる愛憎と切ない想いを解き放とうとしているかのようだった。 薄絹の帳の中で重なり合う二人の影を見つめ、清瑟は突如として胸の傷の激痛に襲われ、その場にうずくまった。 胸を押さえる手から血がぽたぽたと地面に滴り落ちたが、どんな身体の痛みも、今の彼女の心が受けている千々に引き裂かれるような苦痛には及ばなかった。 長離、ああ、長離。 あんなにも長かった流刑の道のりを経ても、結局あなたは私を愛してはくれなかったのね。 それならば、私、江清瑟とて、どうしてもあなたに嫁がねばならない理由などない。 身を切られるような想いでひとりの人を十年間も愛し続けたというのに、手放すのはかくも一瞬のことなのだ。 彼女は背を向けて立ち去った。血は歩む道すがら滴り落ち、回廊の床に悲しくも妖艶な花を次々と咲かせていった。 道中、宮中の女官や宦官たちは恐怖のあまり道を空けたが、彼女は全く気にする様子もなく、まっすぐに皇帝の寝宮へと向かって歩みを進めた。 「江殿!?」 門番の宦官は、彼女が血まみれであるのを見て顔面を蒼白にした。 「いかがなされましたか……」 「私、江清瑟。陛下への謁見を賜りたく存じます。両国の邦交に関わる一大事ゆえ、公公(こうこう/宦官に対する呼称)、どうか至急お取次ぎを!」 しばらくの後、殿舎の扉が開かれた。 御書房(ごしょぼう/皇帝の執務室)にて、皇帝は殿中の床に跪く清瑟を見て眉をひそめた。 「清瑟よ、その姿は一体……」 清瑟は深く頭を床に擦り付けた。 「北朔(ほくさく/北方の異民族)が皇族の姫君を娶りたがっていると耳にいたしました。私自ら志願し、北朔への和親の降嫁を請け負います。この身をもって、辺境に永遠の安寧をもたらしてみせましょう!」 第2話 皇帝の手にある朱筆がピタリと止まり、墨汁が上奏文にじわじわと滲んでいった。 彼は殿中に跪く女を見下ろし、眉をひそめた。 「清瑟よ、お前は長離が流蛍を側妃にするという話を聞いたのか?安心せい、朕の勅命はまだ……」 「陛下」 清瑟は彼の言葉を遮り、その口元には痛ましい笑みが浮かんでいた。 「私は、もう皇太子殿下には嫁ぎとうございません」 彼女は深く頭を下げ、冷たい床に額を擦り付けた。 「私は和親の降嫁を志願し、両国の安寧と引き換えとうございます!」 皇帝は長い沈黙の後、ついに深くため息をついた。 「本気で決めたのだな?北朔への道のりは遠くて険しい。一度行けば、二度と都に戻る日は来ないのだぞ」 「覚悟の上でございます。陛下、どうかお聞き届けください」 皇帝は再びため息をつき、ついに筆を取って詔書に印章を押した。 「……そこまで言うなら、朕が最高の嫁入り道具を整えてやろう。一ヶ月後、盛大な和親の儀を執り行う」 東宮へ戻った時、清瑟はすでに目の前が真っ暗になるほどの痛みに襲われていた。 彼女が横になった途端、殿舎の扉が押し開かれた。 「清瑟?目を覚ましたか?」 長離の声が殿内に響いた。清瑟が振り向くと、揺らめく蝋燭の灯りの中に彼が立っていた。玄色の錦衣にはまだ夜露が少し残っている。 彼女が胸元を押さえているのを見て、彼の顔色が微かに変わった。そして弁解するように言った。 「昨夜、東宮に刺客が潜り込んだのだ。余の護衛が至らず、お前に傷を負わせてしまった」 清瑟は思わず吹き出しそうになった。 刺客?よくもまあ、そんな嘘を。 彼は手を伸ばして彼女の傷に触れようとしたが、痛ませるのを恐れるように手を引っ込めた。 「まだ痛むか?」 清瑟は静かに首を振った。 「痛くありません。流刑への道中、殿下の代わりに受けたあの剣傷に比べれば」 長離の手が宙で止まった。 あの年、荒れ果てた山野で、彼女は彼を庇って山賊の刃を受け、あわや命を落としかけたのだ。 沈黙が殿内に広がった。しばらくして、彼は低い声で言った。 「清瑟、余はすでに勅命を乞うた。一ヶ月後、お前を正妃として迎える」 一呼吸置き、さらに付け加えた。 「同時に、流蛍を側妃として迎える」 清瑟は目を伏せた。 一ヶ月後には、自分はもう北朔へ向かう途上にいるというのに。 「彼女を側妃に娶るのも、復讐のためですか?」 彼女は静かに尋ねた。 長離の表情が微かに強張り、一瞬、時が止まったかのようだったが、やがて彼女の手を握った。 「当然だ。そうしてこそ、彼女を常に手元に縛り付け、じわじわといたぶることができる」 清瑟は顔を上げ、目の前の端正な顔立ちを見つめた。 なんて滑稽なのだろう。彼がこれほど真剣に芝居を打っているというのに、彼女にはもう、それに付き合う気力すら残っていなかった。 「殿下のお好きなようになさってください」 彼女の口調は平坦だった。 この言葉に、長離はハッとして立ち尽くした。 泣いて騒ぐか、それとも問い詰められるかと思っていたのに、これほどまでに淡白な反応は予想外だった。 得体の知れない苛立ちが胸に込み上げ、彼は手を伸ばして彼女をその腕に抱き寄せた。 「清瑟、あの流刑の道を、共に歩んでくれたのはお前だけだ」 彼の声は少し掠れていた。 「余は言ったはずだ。この生において、決してお前を裏切らぬと」 清瑟は彼に抱かれるままにしていた。 いつからだろうか、この胸に抱かれることだけが、彼女のすべての切なる願いだったのは。 「では、私を愛していますか?」 彼女は小声で尋ねた。 長離の体は明らかにこわばり、長い沈黙の後、低く呟いた。 「……当然、愛しているとも」 彼は嘘をついている。 清瑟は彼のことを知り尽くしていた。嘘をつく時、彼は決まって無意識に袖口を指でこする。ちょうど今、彼がしているように。 実際のところ、清瑟にはずっと理解できなかった。なぜなのか…… 彼は皇太子で、清瑟は丞相の正室の娘であり、流蛍は国公(こっこう/皇族に次ぐ最高位の貴族)の令嬢であった。三人は幼い頃から共に育ったというのに、幼い頃からずっと、長離の目には流蛍しか映っていなかった。 少年時代、三人で宮中の庭園で遊ぶ時も、長離の視線は常に流蛍を追っていた。宮中の宴席では、流蛍の盃が空になったことに誰よりも早く気づくのは彼だった。先帝が彼に流蛍を下賜した日、彼は狂喜して一晩中酒を飲み明かした。 彼がこれほどまでに流蛍を愛していること、清瑟はとうに受け入れていた。 だが、流蛍はどうだったか? 彼が廃嫡され流罪となった時、彼女は真っ先に婚約破棄の文を送りつけ、きれいさっぱり縁を切ると言い放ったのだ。 あの日、長離はその手紙を握りしめ、雨の中で一晩中立ち尽くした。腸がちぎれるほどの悲しみに目を血走らせていたというのに、流蛍は屋敷の門さえ開けようとはしなかった。 傘を差し掛けて彼を見つけ出したのは清瑟であり、看病し続けたのも彼女であり、果てしない流刑の道を共に歩んだのも彼女だった。 「俺を置いていかないでくれ」と彼が咽び泣いた時、「私はここにいる、ずっとここにいるわ」と耳元で何度も囁き続けたのも清瑟だった。 それでも、彼の心が温まることはなかったのだ。 幸いなことに、彼女はもうはっきりと目を覚ました。これ以上、冷たくなった心を温めようとあがくのはやめる。 清瑟は微かに微笑んだ。 その笑い声に後ろめたさを感じたのか、長離は胸が締め付けられるのを感じ、口を開きかけたが、その時、殿舎の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。 「殿下!慕殿がひどく胸の痛みを訴えておられます。どうかすぐにお越しを!」 長離はすぐに清瑟から手を離し、冷ややかな美貌に焦りの色を浮かべた。 「清瑟、少し様子を見てくる。あいつが死んでしまっては、後でどうやって復讐すればいいのだ?」 彼が足早に去っていく背中は、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。 清瑟は揺れる殿舎の扉を見つめ、静かに笑った。 そして、彼がこの日を境に戻ってくることは二度となかった。 それからの日々、東宮のあちこちで、皇太子が流蛍を寵愛しているという美談がまことしやかに囁かれた。 彼は「星を見るのが好き」という流蛍の言葉一つで星を観るための高楼を再建し、彼女を笑顔にするためだけに、遠く江南から新鮮なライチを取り寄せた。さらには自らの手で彼女の眉を引き、髪を梳くなど、仲睦まじい夫婦がするようなことをすべてやってのけた。 「お嬢様!あの下賤の者たちめ、裏で陰口を叩きおって。『あの皇太子妃の座は、遅かれ早かれ慕流蛍様のものになる』などと!私めが奴らの口を引き裂いてまいります!」 侍女の青吟(せいぎん)は悔しさに目を赤くしていた。 「やめなさい」 清瑟は静かに花嫁衣裳に刺繍を施していた。 それは、和親のために用意しているものだ。 「言わせておけばいいのよ」 もとより彼女は、長離の皇太子妃になるつもりなどないのだから。 ある日、彼女が中庭で花の枝を整えていると、ふと侍女たちが噂話をしているのが耳に入った。 「聞いた?慕殿が身籠られたそうよ!殿下は大層お喜びになられて、宮中の者全員に三ヶ月分の給金を下賜されたわ!」 ポキッという音がして、清瑟の手が震え、花の枝が手の中で折れた。 流蛍が身籠ったというのか!? 第3話 状況を呑み込む間もなく、背後から女の声がした。 「清瑟のお庭は、ずいぶんとみすぼらしいのね」 清瑟が振り返ると、まだ目立たない腹に手を添えた流蛍が、華やかな衣装を身に纏い、陽光の下に立っていた。 「あら、私としたことが」 流蛍はわざとらしく口元を覆って驚いてみせた。 「忘れておりましたわ。殿下が東宮の立派な品々を、すべて私の所に送ってしまわれたことを。清瑟の所には飾り立てるものが何もなくて、少々みすぼらしく見えてしまいますわね」 清瑟の指先は微かに震え、胸の奥で渦巻く刺すような痛みを必死に抑え込みながら、流蛍を見つめた。 「何をしに来たの?」 流蛍は腹を撫でながら、媚びるように笑った。 「最近つわりが酷くて、無性に酸っぱいものが食べたいのです。お聞きしたところ、清瑟の作る梅の菓子が一番食欲をそそるとか。ぜひ一ついただきたくて」 清瑟の指先が震え、口を開くよりも早く、そばにいた侍女の青吟が怒りを露わにして彼女の前に立ちはだかった。 「慕殿!うちのお嬢様は未来の皇太子妃であらせられます。たかが側妃の分際で、皇太子妃殿下に下働きをさせようというのですか!東宮の掟を何と心得る!」 パァン! 不意に強烈な平手打ちが青吟の頬に飛んだ。流蛍は手を引っ込め、その目に冷酷な光を宿した。 「主が話しているのに、下賤な奴婢が口を挟むとは何事?誰か、この者に往復百回の平手打ちをお見舞いしなさい!」 清瑟の瞳に冷ややかな光が宿り、即座に青吟の前に立ちはだかった。 「やらせるもんですか!」 流蛍は唇を微かに吊り上げた。 「私がやれないとでも?」 彼女は低く呼んだ。 「夜梟(やきょう)!」 黒い影がふいに出現し、清瑟の瞳孔が収縮した。 それは長離の傍に仕える最も腕の立つ隠密であり、十数年もの間影のように彼を守り続けてきた者だ。長離は、その男までも流蛍に与えていたというのか? 夜梟は無表情のまま清瑟の両腕を拘束し、下働きの老婆二人が進み出て青吟を押さえつけると、雨霰のごとく平手打ちが振り下ろされた。 青吟の口角からはすぐに血が滲んだが、それでも彼女は頑なに流蛍を睨みつけていた。 「やめなさい!」 清瑟の声は震えていた。 「私が作るから、青吟を離して」 流蛍はそれで満足したように手を振り、刑を止めさせた。青吟は血まみれの顔で清瑟の足元にすがりついた。 「お嬢様、いけません!あなた様のように尊い身分の方が、あのような……」 清瑟は身をかがめて彼女の血を拭い、優しく言った。 「大丈夫よ」 厨房にて、清瑟は未だ癒えぬ胸の痛みに耐えながら、粉を捏ね、餡を作り、蒸籠に火にかけた。 最初の一籠が蒸し上がった時、流蛍は東屋に座って雪景色を愛でていた。 「甘すぎるわ」 彼女は一口かじっただけで、それを地面に投げ捨てた。 第二籠、流蛍は眉をひそめた。 「酸っぱくて歯が浮くわ」 第三籠、彼女は皿ごとひっくり返した。 「わざと私のつわりを重くさせようとしているの?」 清瑟の両手は火傷で真っ赤に腫れ上がっていたが、ただ淡々と尋ねた。 「一体、どんな味がご所望なの?」 「清瑟、どうしてそんなに自分を押し殺していらっしゃるの?」 流蛍がふいに近づき、彼女の耳元で囁いた。 「実は私、ただ見てみたかっただけなの。かつて長離様のために眉一つ動かさず剣を受けたあのお嬢様が、一体どこまで耐えられるのかをね」 清瑟は爪を深く手のひらに食い込ませた。 「もう食べたくないと言うなら、私はこれで失礼するわ」 彼女が背を向けて立ち去ろうとした瞬間、背後で突然ドボン!という巨大な水音が響き渡った。 清瑟が勢いよく振り返ると―― なんと、流蛍が自ら氷の張った湖に飛び込んだのだ! 「助けて!皇太子殿下、お助けを――」 流蛍は水の中で激しくもがき、悲痛な叫び声を上げた。 ほぼ同時に、玄色の人影が疾風のごとく駆け抜け、躊躇うことなく骨まで凍るような湖水へと飛び込んだ! 長離が流蛍を岸へ抱き上げた時、彼女はずぶ濡れの体を震わせながら彼の胸に丸くなり、大粒の涙を流して泣きじゃくった。 「殿下、清瑟を責めないで……彼女は、わざとやったわけでは……」 長離は顔を上げ、刃のような鋭い視線を清瑟に突き刺した。 「彼女が身籠っていること、知らなかったとは言わせんぞ」 清瑟はその場に立ち尽くし、指先は氷のように冷たくなった。 「清瑟、言っただろう。彼女を東宮に置いているのは復讐のためだと」 彼の声は低かったが、一言一言が心を抉るようだった。 「どうして彼女と同じ土俵に立とうとするのだ?」 清瑟はふと笑みをこぼした。笑っているうちに、涙がこぼれ落ちた。 「復讐?」 彼女は呟いた。 「子どもができるまで……復讐したと?」 「寒い……長離様、すごく寒いわ……」 流蛍が弱々しく彼の胸にすり寄ると、彼の眉間にたちまち痛切な色が浮かんだ。 再び顔を上げた時、長離は怒気を孕んだ目で清瑟を睨みつけた。 「その程度の度量で、どうして東宮の正妃が務まるというのだ!東宮の掟は破れぬ。事を構えた者が罰を受ける!」 そう言い放つなり、彼はあろうことか清瑟を氷の湖へと突き落としたのだ。 ドボン! 冷え切った湖水が一瞬にして頭上を飲み込み、骨の髄まで千本の針を刺されるような寒気が襲った。 清瑟が必死にもがいて水面に顔を出すと、長離の冷酷な命令が聞こえた。 「二時間、浸かってから上がれ」 真冬の凍てつく湖水は刃のようだった。清瑟は四肢が凍りつき麻痺していく中、流刑の道中での記憶が脳裏に浮かんだ―― 吹き荒れる大雪の中、高熱で意識を失った長離を背負い、一歩また一歩と凍てつく川面を踏みしめて歩いたあの冬。 氷が割れ、極寒の淵に落ちた時も、彼女は必死で彼を庇い、人に助けられるまで決して離さなかった…… あの時、彼は彼女の手を固く握りしめ、咽び泣きながら言った。 「清瑟、俺はこの生において、決してお前を裏切らぬ」 彼が言った「裏切らない」とは、別の女のために彼女を氷の湖へ突き落とすことだったのだ。 第4話 清瑟は氷の湖にきっちり一刻浸からされ、引き上げられた時にはほぼ昏睡状態に陥っていた。 彼女は三日三晩高熱にうなされたが、東宮の侍医たちは皆、「お腹の赤子に障った」流蛍の世話に駆り出されていたのだ。 彼女は己の生命力だけで生き延びた。目を覚まして最初にやったことは、作りかけの花嫁衣裳に再び刺繍を施すことだった。 長離が扉を押し開けて入ってきた時、ちょうど彼女がうつむいて針に糸を通しているところだった。揺らめく蝋燭の灯りが彼女の青白い横顔を照らしている。 長離は心が和らぎ、彼女の傍へ歩み寄った。 「嫁入り道具など宮中の者に用意させればよいものを。なぜ自ら針を執るのだ?」 清瑟は顔も上げずに答えた。 「自分で縫い上げた衣裳の方が、良縁が長く続くと申しますから」 長離は胸を打たれ、彼女を抱き寄せた。 「前回の罰のことで、まだ余を恨んでいるのか? 今、流蛍は身籠っている。余は彼女を憎んでいるゆえ、彼女とその腹の子をまとめて報復したいのだ。だからこの子は絶対に産ませねばならぬ。間違いは許されない。子が生まれれば、生き地獄を味わわせてやる。だから、嫉妬などはしないでくれ。な?」 清瑟は目を閉じ、胸が小刻みに震えるほどの痛みを感じた。 彼の嘘は……本当に堂に入ったものだ。 誰の目から見ても、彼が流蛍を骨の髄まで愛していることは明白だというのに。 長離は彼女の額に口づけし、優しく言った。 「いい子だ。今日は上元の節句、東宮で宴を設けた。お前は賑やかなのが好きだろう?」 彼が手を叩くと、女官が華麗な衣装を捧げ持ってきた。 「これは宴に着ていく衣だ。着替えたら来なさい」 夜の帳が下り、東宮は色鮮やかな提灯で飾られていた。 長離の隣に座っているのは流蛍であり、次期皇太子妃であるはずの彼女の席は末席に追いやられていた。 満座の客たちがひそひそと囁き合う。 「慕殿はただの側妃だという話ではなかったか?殿下と同席するとはどういうことだ?」 護衛が慌てて説明に回った。 「殿下が仰るには、江殿は目立つことを好まれぬゆえ、同席は控えたとのこと……」 清瑟は一言も発さず、静かに席に着いた。 宴席で、彼女は長離が流蛍のために葡萄の皮を剥き、美酒を注ぎ、彼女が甘えるやいなや、皆の面前でその指先を口に含んで軽く吸いつける様をただ見つめていた。 芸を披露する歌姫が長離の視線を少し集めただけで、流蛍はたちまち唇を尖らせた。 長離は用心深く清瑟を盗み見し、彼女がうつむいて食事をしているのを確認してから、流蛍の手を引き寄せて固く握りしめた。 「余の心が動くのはお前だけだ」 彼は声を潜めて宥めた。 「あの歌姫は……目元がお前に似ていたから、つい見てしまっただけだ」 彼自身は誰にも気づかれていないつもりだったが、清瑟が視界の隅でそのすべてを捉えていたことなど、知る由もなかった。 おそらく、もう愛していないからだろう。彼女は驚くほど何の痛みも感じなかった。 宴も半ばに差し掛かった頃、不意に流蛍が声を上げた。 「殿下、この歌舞はいささか退屈だわ。いっそ清瑟に一曲弾いていただき、宴の興を添えていただいてはいかがでしょう?清瑟の焦尾琴(しょうびきん/名高い古琴)の腕前は、都でも評判だもの!」 満座の視線が一瞬にして彼女へと注がれた。 清瑟は弾きたくなかった。角が立たぬよう断ろうとしたが、長離の視線はすでに清瑟に向けられており、優しく、しかし有無を言わさぬ命を下した。 「清瑟、そういうことなら、興を添えるために一曲頼む」 清瑟には断る術がなかった。 彼女は無言で琴の台へ歩み寄り、指先で家伝の焦尾琴を静かになぞった。 琴の音が鳴り響き、それは泣きじゃくるように、そして何かを訴えかけるように響き渡った。 堂内が喝采に包まれたその時、突然、流蛍が腹を抱えて悲鳴を上げた。 「ああ……痛いっ……殿下……この琴の音が……胎児の障りになったわ!」 長離の顔色が劇的に変わり、猛然と剣を抜いて琴の弦を断ち切った! ビィンッ――! 家伝の焦尾琴が真っ二つに割れ、飛び散った青桐の木片が鋭い矢のように清瑟の右眼に突き刺さった。 清瑟は眼を覆い、顔を血に染めて琴の上に倒れ込んだ。頭が割れるように痛む。 血塗られた視界の先で彼女が最後に見たのは、一度も振り返ることなく流蛍を抱き抱えて駆け去っていく、長離の背中だった…… 第5話 清瑟が目を覚ました時、目の前は薄ぼんやりと霞んでいた。 瞬きをすると、視界には血色の薄霧がかかり、まるで紗の向こうを見ているようだった。 青吟が寝台の端にすがりつき、息も絶え絶えに泣き叫んだ。 「お嬢様!やっとお目覚めになられたのですね!侍医が……あと一寸深ければ、お嬢様の目は……」 彼女は言葉を詰まらせたが、清瑟には分かった。 あと少しで、自分は失明していたのだ。 彼女はゆっくりと手を持ち上げ、指先で目に巻かれた包帯にそっと触れ、ふと笑った。 「青吟、もう泣かないで」 「お嬢様、痛くないのですか?」 青吟の涙が彼女の手の甲に落ちた。 「痛いなら泣いてください、我慢なさらないで……」 清瑟は帳の天井に刺繍された鴛鴦を見つめながら、気を失う前の光景を思い出した。 長離が剣を振るって琴の弦を断ち切り、飛び散った木片が彼女の目に刺さる中、彼は一度も振り返ることなく流蛍を抱いて立ち去ったのだ。 心臓は確かに痛い。だが、もう涙は枯れ果てていた。 彼女は静かに言った。 「泣いたところで、痛みを分かち合ってくれる人なんていないわ」 心配してくれる人がいないのなら、もう泣かない。 青吟はさらに激しく泣き崩れ、今にも気を失いそうになった。 その時、殿舎の扉が押し開かれ、長離が大股で歩み入ってきた。 青吟はもう我慢できなかった。 彼女は彼の前に勢いよく土下座し、何度も床に額を打ち付けた。 「皇太子殿下!どうかお嬢様を一度だけでも哀れんでくださいませ! あの年、お嬢様は殿下の流罪に付き従うため、丞相と奥様から九十九回もの鞭打ちを受けられたのです!一打ちごとに血が飛び散るほどの拷問でした! 丞相は今でもお嬢様を許しておらず、生涯二度と会わぬと公言されております!お嬢様にはもう何もないのです、殿下しかいらっしゃらないのですよ!」 長離の体は石のように硬直した。 彼は寝台に横たわる清瑟に目を向けた。彼女は静かに横たわっており、包帯の下の目が開いているのか閉じているのかは分からない。唇の色は画仙紙よりも白かった。 彼はふと、流刑の道中でのある雨の夜を思い出した。高熱を出していた彼女が、最後の乾いた衣を彼に着せかけてくれた夜を。 なぜついて来たのかと尋ねると、彼女は笑って答えた。 「殿下がここにいらっしゃるからですわ」 知らなかった。彼女が自分についてくる前、九十九回もの鞭打ちを受けていたなんて! 長離は胸を震わせ、彼女の氷のように冷たい手をその手のひらで包み込んだ。 「清瑟、琴の破片がお前を傷つけるとは思いもしなかった」 彼の声はこわばっていた。 「あの時は、あいつの腹の子のことしか頭になく……」 失言に気づき、彼は慌てて言い直した。 「いや、その……あの子はまだ利用価値があるゆえ……」 清瑟は彼の眼底に浮かぶ狼狽を静かに見つめた。滑稽なことだ、嘘すらまともに取り繕えなくなっている。 「今後は二度と、このような事は起こさぬと誓おう」 彼は彼女の頬を撫で、約束した。 「この数日、余は政務を休む。お前一人に付き添うことにする」 それからの日々、長離はまるで借りをすべて埋め合わせるかのように振る舞った。 尚宮局(しょうきゅうきょく/後宮の女官を統括する部署)から南海の真珠が沢山届くと、彼は最も輝くものを選び出し、それらを集めて明かりを作り、彼女の枕元に置いた。 「これで夜も暗くないだろう」 彼女が苦い薬を嫌がると、薬丸を蜜柑で包ませ、子供をあやすように食べさせた。 「これが最後だ、いい子だから」 流蛍の侍女が三度も迎えに来たが、彼は一度も会わず、上奏文すら彼女の殿舎に運び込んで決裁した。 だが、清瑟の心は雪に覆われた荒野のようであり、二度と温もりを生み出すことはなかった。 彼女はただ黙々と花嫁衣裳を縫い進め、一針一針にすべての痛みを縫い込んでいるかのようだった。 長離は背後から彼女を抱きしめ、耳たぶに口づけをして低く笑った。 「いつも嫁入り道具の刺繍ばかりしているな。そんなに余に嫁ぐのが待ち遠しいのか?」 清瑟の指先が微かに止まり、静かに答えた。 「ええ、とても待ち遠しいですわ」 ――ただし、あなたに嫁ぐためではない。 この衣裳が完成する時こそ、自分が彼のもとを永遠に去る日なのだ。 夕餉の時、長離は明らかに上の空だった。 流蛍の侍女がまたやって来て、殿舎の外で泣きじゃくっている。 清瑟は玉箸を置き、言った。 「殿下、行ってあげてください」 「行かぬ」 長離は海老の身を一つ摘んで彼女の椀に入れた。 「前回はお前を蔑ろにしてしまった。余があいつに抱いているのは復讐心のみ。あいつの腹の子さえ手に入ればよい。普段は当然、お前の傍にいる」 清瑟は椀の中の海老をうつむき加減で見つめた。 私の傍にいると言いながら、私が海老を食べれば全身に湿疹ができることすら、覚えていないくせに。 第6話 突如として深い疲労感が押し寄せ、清瑟は体調が優れないと口実を作って早々に床についた。 長離は彼女を抱きしめたまま一時間ほど添い寝していたが、彼女の寝息が規則正しくなると、足音を忍ばせて上着を羽織り、そっと部屋を出て行った。 雪が降り積もる中、清瑟は彼が残した足跡を辿り、流蛍の寝宮へと向かった。 近づいた途端、ガシャンと陶磁器が砕け散るような甲高い音が響いた。 「なんで来たのよ!?あなたの立派な皇太子妃殿下のところに行けばいいじゃない!」 流蛍の泣きじゃくる声が聞こえる。 「我儘を言うな」 長離の呆れたような、しかし甘やかすような声が続く。 「こうして会いに来ただろう?」 「ここ数日、ずっとあの女のところにいたくせに!」 「あれはただの罪滅ぼしだ……」 彼はため息をついた。 「なにせ、あいつの目を傷つけてしまったからな」 ねっとりとした水音が響いた後、長離の声はさらに甘く柔らかくなった。 「よしよし、もう泣くな。どうしてほしい?お前の望む通りにしよう、な?」 流蛍はしゃくりあげていたが、やがて泣き笑いの声を上げた。 「今日は雪が綺麗だから、長離様の背中でお馬さんごっこしたい!雪合戦も!」 周囲に控えていた宮中の者たちが、一斉に息を呑む気配がした。 護衛が慌てて制止に入る。 「殿下は尊き御身、そのような遊びは断じて……」 「黙れ」 長離は軽く笑い飛ばした。続いて、衣擦れの音が聞こえる。 「乗れよ、我が儘姫」 窓の隙間から覗き込むと、長離が雪の中に膝をついていた。高貴な礼服が泥雪にまみれている。 流蛍は彼の肩に跨り、花が揺れるようにキャハハと笑いながら、丸めた雪玉を彼の襟元に押し込んでいた。 彼は怒るどころか、彼女の膝裏を支えて軽く上に持ち上げた。 「しっかり掴まってろよ、落ちても知らんぞ」 清瑟の睫毛に舞い落ちた雪の結晶が、体温で溶けて雫となり、頬を伝い落ちた。 人は極限まで傷つくと、本当に涙も枯れ果ててしまうものなのだ。 彼女はよろめきながら元来た道を引き返した。胸の傷口が開き、血が滲み出している。雪の上に落ちた血の滴は細い紅い糸のような軌跡を描き、それはあの年、流刑の道中で彼を背負いながら歩いた、血まみれの山道を彷彿とさせた。 あの日、雪の庭での情景を見て以来、清瑟は一歩も寝宮の外へ出なかった。 ただ静かに、花嫁衣裳に刺繍を施し続けた。紅い絹地の上を滑る金糸の一針一針が、彼との永遠の別れを意味していた。 和親の儀の三日前、護衛が新品の狩猟着を届けてきた。皇太子殿下からの仰せだという。 年に一度の皇室の狩猟の宴に、長離は彼女を伴うつもりなのだ。 狩猟の当日。雪上がりの空は晴れ渡っていた。 清瑟が踏み台に足をかけ、馬車に乗ろうとしたその時、背後から猫撫で声が響いた。 「清瑟、待って!」 流蛍は鮮やかな桃色の狩猟着に身を包んでいた。まだ腹は目立たないというのに、わざとらしく腰に手を当て、ゆっくりと歩み寄ってくる。 「侍医が少し歩いた方がお腹の子に良いと言うから、長離様が一緒に来ていいって言ってくれたの」 長離はしばらく経ってから馬車に乗り込んできた。彼は終始、流蛍と言葉を交わすことはなかったが、その視線は常に無意識のうちに彼女を追っていた。 流蛍が小さく咳き込めば、すぐに温かい湯呑みを差し出す。 流蛍が馬車の揺れに眉をひそめれば、外の御者に速度を落とさせる。 流蛍が帳をめくって外の景色を見ようとすれば、さりげなく彼女の外套の襟元を合わせてやる。 清瑟を蔑ろにしていることに気づいたのか、長離は軽く咳払いし、湯呑みを彼女の方へ押しやった。 「清瑟、温かい茶でも飲め」 彼女は動かなかった。 すると彼は、無意識に盆から蜜柑の砂糖漬けを一つ摘み上げ、彼女に差し出しかけて、空中でピタリと手を止めた。 それは流蛍の好物であり、清瑟は昔から甘いものが大嫌いだったからだ。 愛していれば、どんな些細なことすら骨の髄まで刻み込まれる。 だが愛していなければ、どれほど尽くされようと記憶の片隅にも残らないのだ。 清瑟はふっと笑みをこぼし、窓の外を飛ぶように過ぎ去る冬枯れの木々をただ静かに見つめ続けた。 狩猟場に到着すると、玄色の大氅(たいしょう/動物の毛皮で作られた豪奢な外套)を纏った長離は、絵に描いたような美しさを際立たせていた。彼は馬に跨り、清瑟に向かって優しく言った。 「清瑟、お前の新しい外套を作るために、白狐を狩ってきてやろう」 一呼吸置き、彼は付け加えた。 「流蛍は身重だ。お前が……よく見ていてやってくれ」 第7話 清瑟は淡々と頷いた。 だが、長離が去った途端、流蛍は甘ったるい声で言った。 「清瑟、私、お馬に乗りたいわ」 清瑟は眉をひそめた。 「身重なのに、馬になど乗れるわけがないでしょう」 「でも、長離様は清瑟に『私の面倒を見ろ』って仰ったわよね?」 流蛍は無邪気を装って笑った。 「清瑟は、殿下のご命令に背くおつもり?」 清瑟はしばらく沈黙した後、仕方なく歩み寄り、馬の轡を握った。 だが、流蛍は馬の背に跨るやいなや、隠し持っていた簪で馬の腹を思い切り突き刺したのだ! 馬は痛みに狂い、前脚を高く上げて嘶いた。 流蛍は悲鳴を上げ、馬の背から勢いよく転げ落ちた。 「あああっ!私の、私の子どもが――!」 狩猟場はパニックに陥った。 長離が戻ってきた時、彼の手にある白狐の血はまだ乾いていなかった。 侍医が震え上がりながら報告している。 「慕殿は骨を一本折られましたが、幸いにも日頃から滋養の薬を十分に摂っておられたため、お腹のややこには障りございません……」 流蛍は絶妙な間合いで目を覚まし、涙ながらに長離の袖にすがりついた。 「長離様……清瑟が私のこと嫌いなのは分かってる。でも、だからって……私たちの子どもを殺そうとするなんてひどいよ!」 長離の瞳が暗く沈んだ。 「どういう意味だ?」 「長離様がいなくなった途端、清瑟が私に無理やり馬に乗れって……私みたいな身体で、乗れるわけないのに!」 流蛍はぽろぽろと涙をこぼした。 「それに清瑟、手綱を引いてくれなかったどころか……簪で馬を刺したのよ!」 長離は猛然と清瑟を振り返り、その目には人を焼き尽くすような怒りの炎が宿っていた。 「余は言ったはずだ、腹の子に万が一のことがあってはならぬと!」 侍医が慌てて地に跪いた。 「殿下、どうかご明察を!あの時、我々もその場におりましたが、慕殿はご自身で――」 「黙れ!」 長離が凄まじい声で遮った。 「清瑟、外へ出て地に跪け。丸一日雪の中で跪き、彼女に詫びるのだ!」 最初から最後まで、清瑟は一言の弁解も口にしなかった。 ただ、彼に一つだけ問いかけた。 「皇太子殿下」 彼女はふと顔を上げた。 「無事であってほしかったのは、お腹の子ですか?それとも……彼女自身ですか?」 長離はハッとして立ち尽くした。 だが、彼女は答えを待たず、ただ微かに微笑むと、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、吹き荒れる吹雪の中へと歩み出て膝をついた。 膝が冷たい雪に触れた瞬間、古傷が引き裂かれるように痛んだ。 それは流刑の道中、彼のための薬を乞うために、丸三日氷の上に跪き続けて負った持病だった。 あの年、高熱にうなされる彼を救うため、極寒の雪の中で丸三日祈り続けてようやく薬を手に入れた時。 彼は目を赤くして、私の凍傷だらけの膝に何度も何度も口づけをした。 「馬鹿なやつだ……どうしてこんな馬鹿な真似を……」 ええ、私は確かに馬鹿だった。あの時も馬鹿なら、今でも、やっぱり馬鹿なのだ。 狩りから戻った皇帝が目にしたのは、まさにその異様な光景だった。 清瑟が雪の中で血の気のない顔をして跪いており、己の愚かな息子は、流蛍を抱き抱えて手厚く介抱している。 「なんという痴れ者か!」 皇帝は激怒し、即座に長離と流蛍を御前に引き摺り出した。 「お前は、清瑟をこのように扱うつもりか!」 長離は無表情のまま答えた。 「父上、東宮の掟は絶対です。彼女は皇太子妃でありながら、将来の側妃をあわや流産させるところでした。上に立つ者として、自ら範を示すべきかと」 皇帝は怒鳴りつけた。 「誰が、清瑟がお前の正妃だと言ったのだ!」 長離は勢いよく顔を上げた。 「……どういう意味ですか?」 皇帝は信じられないという顔で、清瑟に視線を向けた。 「お前、まだこの馬鹿者に話していなかったのか?」 清瑟が目を伏せ、口を開きかけたその時、突然流蛍が短い悲鳴を上げて気を失った。 場は再び混乱に陥り、長離は流蛍を抱き上げると、清瑟を一瞥することすらなく慌ただしく立ち去っていった。 皇帝は深くため息をつき、自らの手で清瑟を雪から立たせた。 「辛い思いをさせたな。北朔の使節団は明後日には到着する。お前は……」 清瑟はただ静かに首を振った。 「陛下、私は少しも辛くなどございません」 彼から離れれば、もう二度と苦しむことはない。 これからの日々は、すべてが穏やかなものになるのだから。 第8話 帰りの道中、流蛍は長離が席を外した隙を狙い、清瑟の行く手を塞いだ。 彼女は鬢の毛に挿した真珠の簪を撫でながら、媚びるような、それでいて勝ち誇った笑みを浮かべた。 「清瑟、皇太子妃の座に就いたところで何になるの?長離様が愛しているのは私だけ。愛されない者こそ、この世で一番惨めなのよ」 彼女は清瑟の耳元に顔を寄せた。 「清瑟、まだ現実が見えていないみたいだから。今日は特別に……いいお芝居を用意してあげたわ。長離様がどれほど私を愛しているか、とくとご覧なさい」 清瑟は嫌な予感を覚えた。 てっきり流蛍が直接自分に危害を加えるのだと思い、袖口に短剣を忍ばせ、いざとなれば刺し違える覚悟で身構えていた。 だが予想に反して、馬車が走り出しても、流蛍は終始大人しく座っており、怪しい素振りは一切見せなかった。 一行が道半ばに差し掛かった頃、突然馬車の外で大きな騒ぎが起きた。 ヒュンッ!という風切り音と共に冷たい矢が御簾を貫き、清瑟の耳元の窓枠に突き刺さった。続いて護衛たちの怒号が飛び交う。 「刺客だ!殿下をお守りしろ!」 清瑟が御簾をめくると、最後尾の馬車の周囲で剣戟の火花が散り、護衛たちが黒装束の者たちと激しく斬り合っていた。 乱戦の中でも、長離の姿はひときわ目を引いた。手にした長剣は雪のように白く輝き、剣先が閃くたびに刺客が次々と血を吹き出して倒れていく。 だが、彼が残りの刺客をあらかた片付けようとしたその時、流蛍が自ら一人の黒装束の男に向かって駆け出し、わざと人質に捕まるのを、清瑟は確かに見た。 冷たく光る曲刀が首筋に押し当てられた時、流蛍は清瑟に向かって、嘲るような笑みすら浮かべていたのだ。 長離の動きがピタリと止まり、剣先が地に下がった。その両目は瞬時に血走り、怒りに見開かれた。 「その女から手を離せ!」 彼の武術の腕前は卓越していたが、自らの最大の弱点を握られ、身動き一つ取れなくなってしまったのだ。 刺客は冷笑した。 「離せだと?いいだろう」 男は流蛍の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。 「だが、少しばかり代償を払ってもらおうか」 流蛍は涙をぽろぽろとこぼし、震える声で叫んだ。 「長離様……助けて……!」 長離の剣を握る手には青筋が浮かんでいたが、迂闊には動けない。 刺客は彼を睨みつけ、ゆっくりと言い放った。 「聞いたところによれば、この女は皇太子殿下がこの世で一番愛している女だそうだな?」 長離は沈黙したまま、ただ流蛍の姿だけを死に物狂いで見つめていた。 刺客は高笑いした。 「よかろう、ならばお前の指を一本よこせ!」 少し離れた場所からその光景を見ていた清瑟の指先が、微かに震えた。 長離は一切の躊躇なく、ゆっくりと左手を持ち上げた。五本の指を広げ、その眼差しは氷のように冷酷だった。 「どの指がいい?」 刺客は目を細めた。 「小指だ」 長離は鼻で笑うと、右手の長剣を翻した。鋭い刃の光が閃き―― ザシュッ! 鮮血が空を舞った。 ぷつりと切り落とされた小指が雪の上に転がり落ち、目を刺すような赤い血溜まりを作った。 予想外の凶行に刺客も呆然とし、何かを言いかけた次の瞬間、背後から潜んでいた隠密たちに飛びかかられ、あっけなく取り押さえられた。 流蛍はよろめきながら駆け寄り、泣き崩れた。 「長離様!なんで、なんでこんな馬鹿なことするのよ!」 長離の顔色は死人のように蒼白だったが、それでも限界まで耐え、彼女に向けて優しく微笑んだ。 「お前が……無事なら、それでいい……」 そう言い残し、彼は意識を失って雪の中に倒れ込んだ。 清瑟はその場に立ち尽くしていた。 雪の上に蛇のように広がる血の跡を。意識を失ってもなお、流蛍の衣の裾をきつく握りしめている長離の手を。そして、血相を変えて止血に奔走する侍医たちを、ただ見つめていた。 彼女は、ふと声を上げて笑った。 なるほど、これが流蛍の見せたかった「お芝居」というわけか。 そして長離は、見事にその期待に応えた。 謝長離。あなたは本当に、慕流蛍を愛しているのね。 狂おしいほどに、破滅的なまでに。 東宮は連日、侍医たちが慌ただしく出入りし、混沌としていた。 青吟が目を真っ赤にして戻ってきた。 「お嬢様、殿下の指はなんとか繋がったそうです……」 彼女は言葉を詰まらせた。 「でも、殿下がお目覚めになって最初にされたことは、慕殿の涙を拭うことだったんですよ!私めは、お嬢様が不憫でなりません!まだ輿入れもしていないのにこの有様では、本当に東宮に入られたら、どれほどひどい扱いを受けるか……!」 清瑟は穏やかに笑い、戸棚から一つの包みを取り出して、青吟に手渡した。 「青吟。私は、東宮には嫁がないわ」 第9話 青吟は呆然とした。 「えっ?」 「私はすでに陛下に勅命を賜っているの。明日、北朔へ和親のために旅立つわ」 青吟は雷に打たれたように硬直すると、猛然と床に膝をついた。 「お嬢様!私めもお供いたします!」 清瑟は首を振り、青吟を立たせて優しく言った。 「あなたの身売り証文はもう燃やしたわ。城外に良い家柄の働き口を見つけてあるの。一度見合いに行ってみて、気に入ればそこへ嫁ぎなさい。もし嫌なら、この包みの中にある金を使えば、一生安泰に暮らせるはずよ……」 青吟は声を上げて泣き崩れ、死んでもついて行くと言って聞かなかった。 だが清瑟はただ静かに首を振り、指先で彼女の髪を優しく撫でた。 「青吟、言うことを聞いて」 青吟は息も絶え絶えに泣きじゃくり、最後に床に額を激しく打ち付けて、三度叩頭した。 「お嬢様……どうか、どうかご無事で……」 殿舎の扉が閉ざされた瞬間、清瑟は目を閉じた。 この冷たい深宮に残っていた、最後の一握りの温もりも、今送り出した。 和親の儀の前日、長離が彼女の殿舎の扉を押し開けた。 もぬけの殻のような部屋を見て、彼は少し遅れて尋ねた。 「お前の侍女はどうした?」 清瑟はうつむいて花嫁衣裳に刺繍をしながら、淡々と答えた。 「少し用事を言いつけて、外へ出しています」 長離は気にする様子もなく、彼女の手元にある衣裳に視線を落とした。 「縫い終わったのか?」 彼女は静かに頷き、最後の一針を指先でなぞった。 長離は歩み寄り、優しい声で言った。 「明日、宮城の門に二つの輿が並ぶ。一つはお前、もう一つは流蛍だ。二人揃って、東宮に迎え入れる」 少し間を置き、彼は付け加えた。 「流蛍は最近、胎の気が不安定でな。だから初夜は……先に彼女の宮へ行くつもりだ」 「気にするな」 彼は顔を近づけ、彼女の髪に口づけした。 「これから先、時間はいくらでもある」 清瑟は何も答えなかった。 長離はそれを同意と受け取り、背を向けて立ち去ろうとした。 「謝長離」 彼女がふいに呼んだ。 彼は振り返った。 「ん?」 「さようなら」 彼女は静かに言った。 彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに吹き出した。 「清瑟、明日また会おう。これからは、昼も夜もずっと一緒だ」 清瑟は彼の真っ直ぐな背中を見つめ、小声で呟いた。 「昼であろうと夜であろうと、もう二度と会うことはないわ」 悲しいかな、その言葉は扉が閉まる鈍い音に掻き消されてしまった。 翌日。輿入れの時が来た。 東宮は色鮮やかな飾り付けが施され、祝いの音楽が天高らかに鳴り響いている。 宮城の門の外には、全く同じ意匠の二つの赤い輿が並んで停まっていた。 流蛍はすでに輿の前で待機しており、清瑟が出てくるのを見ると、紅い唇の端を吊り上げて勝ち誇った笑みを浮かべた。 彼女も今日、花嫁の豪奢な正装を身に纏っていた。側妃とはいえ、その豪華さは正妃に何ら引けを取らない。 「清瑟」 彼女は甘ったるい声で呼びかけ、まだ平らな下腹部を指先で撫でた。 「長離様、約束してくれたの。今夜は私のところに来るって」 彼女は一歩近づき、声を潜めた。 「清瑟は一人寂しく独り寝をするしかないわね」 清瑟は静かに彼女を見つめていた。その瞳には何の感情も波立っていない。 流蛍は彼女が何の反応も示さないことに一抹の苛立ちを覚えたが、すぐに笑みを深めた。 「でも安心なさって。これから先……こんな夜は腐るほどあるのだから」 清瑟がようやく口を開いた。極めて静かだが、一言一言が澄み切った声だった。 「慕流蛍」 「何?」 「あなたと謝長離が、末長く幸せであることを願うわ」 流蛍は意表を突かれ、すぐに花が揺れるように笑い出した。 「清瑟って、本当に寛大でいらっしゃるのね」 清瑟はそれ以上何も言わず、背を向けて輿へと歩みを進めた。 「輿を上げよ――!」 祝いの音楽が一斉に鳴り響き、二つの輿が同時に持ち上げられた。 その二つの輿が、全く別の方向へと進み始めたことに気づく者は誰もいない。 一つは東へ。皇太子の待つ東宮へ向かい、紅い蝋燭の灯る華やかな洞房(どうぼう/新婚の寝室)へと入っていく。 一つは北へ。帝都を背にして、吹き荒れる風雪の中、遥か彼方の異国への和親の旅路へと向かう。 清瑟は北朔の使節団の輿に座り、最後に一度だけ帳をめくって、遠ざかる帝都を振り返った。 謝長離。年月は流れ去っていく。 これを限りに、あなたと私は二度と交わることはない。 太陽と月がすれ違うように、山と海が交わらぬように、永遠の別れを。

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