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忘れたのは、君じゃなくて僕だった
僕――竹内靖樹(たけうち やすき)は3年間、姉の親友――早瀬清美(はやせ きよみ)にしつこくアプローチし続ける。ようやく、彼女は僕と秘密の恋人になることを承諾する。 だけど、誰にも知られない関係が5年目に入った頃、僕が彼女にプロポーズしようと決意したその日、偶然にも彼女と友人たちの会話を耳にしてしまう。 「初恋の人、もうすぐ帰国するんでしょ。あの代わりの彼氏、どうするつもり?」 「別れるときはちゃんと理由を考えておきなよ。あんまり揉めると面倒だから。璃子(あきこ)さんに弟がいじめられたなんて知られたら、絶対に許してもらえないよ」 長い沈黙のあと、彼女は静かに決断する。「じゃあ、記憶喪失ってことにする。この5年間のこと、全部忘れたことにすればいい。どうせ秘密の恋人なんだから、誰にも知られてないし」 忘れる?それなら、それでいい。忘れてしまえば、もう二度と苦しまなくて済む。 その日の夜、僕はこの道で一番腕のいい催眠療法士を訪ねる。そして、僕は、自分の8年間の記憶を消してもらう。 けれど、本当に彼女のことを忘れてしまったら、いつもは冷静で、感情をほとんど表に出さない彼女が、まるで別人のように取り乱した。 彼女は、僕の記憶を取り戻そうと、狂ったように僕へ訴え続ける。
チャプター (1)
第1章
僕――竹内靖樹(たけうち やすき)は3年間、姉の親友――早瀬清美(はやせ きよみ)にしつこくアプローチし続ける。ようやく、彼女は僕と秘密の恋人になることを承諾する。
だけど、誰にも知られない関係が5年目に入った頃、僕が彼女にプロポーズしようと決意したその日、偶然にも彼女と友人たちの会話を耳にしてしまう。
「初恋の人、もうすぐ帰国するんでしょ。あの代わりの彼氏、どうするつもり?」
「別れるときはちゃんと理由を考えておきなよ。あんまり揉めると面倒だから。璃子(あきこ)さんに弟がいじめられたなんて知られたら、絶対に許してもらえないよ」
長い沈黙のあと、彼女は静かに決断する。「じゃあ、記憶喪失ってことにする。この5年間のこと、全部忘れたことにすればいい。どうせ秘密の恋人なんだから、誰にも知られてないし」
忘れる?それなら、それでいい。忘れてしまえば、もう二度と苦しまなくて済む。
その日の夜、僕はこの道で一番腕のいい催眠療法士を訪ねる。そして、僕は、自分の8年間の記憶を消してもらう。
けれど、本当に彼女のことを忘れてしまったら、いつもは冷静で、感情をほとんど表に出さない彼女が、まるで別人のように取り乱した。
彼女は、僕の記憶を取り戻そうと、狂ったように僕へ訴え続ける。
第1話
「竹内さん、もう一度念のためお伝えします。催眠手術を始めた瞬間、過去8年間の記憶は完全に失われます。また、手術に対する本人の意識の受け入れ方には個人差があるため、術後に記憶が混乱したり、最悪の場合は脳に損傷が残ったりする可能性もあります。それでも、手術を受ける意思は変わりませんか?」
僕は数秒、答えを返さない。そして、頭の中でこの8年間を振り返る。
最初の3年間は清美を追いかけ、彼女が初恋の傷から立ち直るまでずっとそばにいる。その後の5年間は、誰にも知られない恋人として彼女と付き合っている。
すべての思い出をひとまとめにすると、たった一言で片づいてしまう。
――独りよがり。
僕は8年間、彼女を中心に生きている。なのに、彼女が僕に返してくれるものは、愛情なんかじゃない。
会社では僕は彼女の部下。家では僕は彼女の使用人。外では、彼女の親友の弟。そして彼女の友人たちの前では、自分の魅力を見せつけるための、ただのアクセサリーだ。
彼女は、一度だって本当の意味で僕を尊重したことがない。
そんな記憶を、残しておく意味なんてあるのだろうか。
僕が手術を受けると伝えようとしたその瞬間、突然スマホの着信音が鳴る。
「君のそばにいたい、明日があるかどうかなんて関係ない。すべてを守る想いと引き換えに、君と愛し合える季節を」
僕が一番好きな曲だ。そして、清美のためだけに設定した特別な着信音でもある。
着信音は三度続けて鳴る。その音には、どこか焦りと切迫感が滲んでいる。
僕の胸の奥に、思わず期待が芽生える。もしかして、清美は僕の手術を止めにきたのか?
けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、冷え切った指示だった。
「今夜、会社で用事があるから帰れない。早く夕飯を作って、宅配で会社まで送って。特にコーラ風味の鶏手羽と、赤ワイン仕立ての黒胡椒ステーキは多めにね」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸にはまず怒りが湧く。そして、すぐに疑問が生まれる。
僕は彼女を愛している。だから、コンビニ弁当なんて適当な飯を食べさせたくない。裕福な家に生まれた僕が、自ら台所に立って彼女のために料理を作る。栄養のことまで考えて、毎日違う料理を用意する。なのに彼女は、それが当然だと言わんばかりに僕を使い走りにする。
ただ、清美は昔から赤ワインが好きなわけじゃない。彼女が自分の好みまで曲げて付き合う相手なんて、海外にいる初恋の男――小林唯斗(こばやし ゆいと)しかいない。
果たして、次の瞬間、スマホの向こうから男の嬉しそうな声が聞こえてくる。
「清美、迎えに来なくていいって言ったのに」
直後、電話が切れる。
そういうことか。やっぱり、唯斗だ。
清美が仕事を放り出してでも駆けつける相手は、あいつしかいない。
清美は唯斗と別れてから3年間、ずっと塞ぎ込んでいた。自分がもっといい女だったら、あの恋は終わらなかったのだと、彼女はずっと思い続けている。
僕はそんな彼女のそばに3年間いた。3年間、何度も励まし続けてきた。その末に彼女はようやく自分の企画を磨き始め、起業への道を歩み出した。
会社を設立した日、彼女は僕の告白を受け入れる。
「靖樹がいてくれたから、私はもう一度、前を向けた。これからもずっと、私のそばにいてくれる?
でもね、会社はまだ始まったばかり。靖樹を堂々と私のそばに置くことはできない。それでも、私と付き合ってくれる?」
僕は迷わず頷く。そうして5年間、僕は彼女と会社の成長を、ずっとそばで見守り続けている。
第2話
僕は恩師の期待を裏切り、古建築の研究を諦めた。家族や友人と過ごす時間も減らし、彼女の仕事と生活にすべてを捧げる。この8年間、彼女こそが僕の世界のすべてだった。
けれど会社が赤字から黒字へ転じ、事業規模が拡大すると、彼女は会社の重要な仕事をほとんど僕に押しつけ、自分は時間を作って何度も海外へ飛び、初恋の相手である唯斗と会うようになる。
彼女は、僕が何も知らないと思い込んでいる。
けれど二人が海外でデートするたび、唯斗は僕に個別メッセージを送りつけ、仲睦まじいツーショット写真を見せびらかしてくる。
【清美と俺は堂々と一緒にいられるのに、国内じゃお前とこそこそ付き合ってる。どっちが部外者なのか、言うまでもないよな】
【清美は俺の好きなビジネススーツをプレゼントしてくれた。俺の服装に合わせて選んでくれたんだ。彼女がお前のために、そんなことをしてくれるか?】
清美は、僕と写真を撮ろうとしたことが一度もない。僕の好みを考えてプレゼントを選んでくれたこともない。僕のクローゼットに並んでいるのは、仕事に使いやすいスーツばかりだ。
僕はずっと、彼女が会社全体の管理や采配に心を奪われているだけだと思っていた。まさか僕が手にしていたものは、全部、唯斗が選んだ後の残り物だったなんて。
二人がデートを終えるたび、唯斗は決まってSNSに愛の言葉を投稿する。
【退屈な日々の中で、君は奇跡。広い世界で、たった一つの帰る場所】
【もう一度君に出会って、初めて永遠というものが見えた】
【また会えた。君はまるで一番輝く星だ。長い夜を、君が照らしてくれる】
投稿された写真には、決まって彼が一番好きな赤ワイン風味の黒胡椒ステーキが写っている。
唯斗の友人たちはずっと、二人は遠距離恋愛をしているだけだと思っている。そしてコメント欄には、次々と祝福の言葉が寄せられている。
僕は自嘲するように笑い声を漏らす。視界が少しずつ滲んでいく。愛されていないなら、それまでだ。どれだけ努力しても、何をしても、愛されないものは愛されない。
隣にいた医師が、もう一度僕に問いかける。その声で、僕は現実へ引き戻された。
「竹内さん、手術を始めてもよろしいですか?」
僕は大きく息を吐き、目尻に浮かんだ涙を拭う。そして清美をそのままブロックし、スマホの電源を落とす。
「準備はできています。始めてください」
清美。僕の人生という物語で、君の出番はここまでだ。
これで、僕たちに未来はない。
……
次に目を開けたとき、僕は病院の病室にいた。目を覚ましたのは、3日後だった。
看護師から催眠手術が無事に成功したと告げられ、僕は大きな衝撃を受ける。
僕は手術の同意書に残された自分の署名を、長い間じっと見つめる。
理由もなく8年間の記憶を捨てるなんて――いったい、僕はどれほどの衝撃を受けたというのだろう。
時間だけが、一秒ずつ過ぎていく。僕はただ、この現実を受け入れるしかなかった。
病院を出た僕は、頭に真っ先に浮かんだ住所へ向かう。
部屋に入った瞬間、僕は言葉を失う。家の中はめちゃくちゃで、女性物の服がソファいっぱいに散らばり、テーブルの上には食べかけのデリバリーまで置きっぱなしになっている。
僕は、だらしない女と同棲しているのか?
そう思った途端、僕の手足は無意識に片づけを始める。
我に返った僕は、その場で固まった。僕は家では、何もしなくても誰かが身の回りの世話をしてくれるような生活をしていたはずだ。それなのに、いつからこんなにマメになったんだ?
部屋を見回す。飾り棚には、派手なフィギュアやぬいぐるみ、枯れない花の記念品が所狭しと並んでいる。どれも、かつての僕が一番興味を持てなかったものだ。
一見ロマンチックに見えるこうした演出は、結局ただの形式に過ぎない。そんなものより、実際にそばにいてくれる時間のほうが、ずっと大切だ。
なのに、僕が一番好きだった古建築の模型は、部屋の隅で埃をかぶっている。
僕は模型を取り出して、丁寧に埃を払う。すると、飾り棚の裏側から一枚の写真が落ちていることに気づいた。
写真には、僕によく似た男が、姉の親友である清美の肩を抱き、幸せそうに笑っている。
僕は首を傾げる。どうして姉の友人の写真が、僕の家にあるんだ?その疑問が解ける前に、玄関のほうから暗証番号を入力する音が聞こえてくる。
続いて、コツ、コツ、と上品なハイヒールの音が近づいてくる。
僕は緊張しながら振り返る。そこに立っていたのは――写真の中の清美だった。
ただ、今の清美は写真の中のあどけない少女とはまるで違う。
凛とした佇まいに、冷たいほどの美しさ。そして、上に立つ者だけが持つ、息苦しいほどの威圧感をまとっている。
第3話
僕は思わず口にする。
「清美さん、どうして僕の家の暗証番号を知ってるの?」
清美は眉をひそめ、少し意外そうな顔をする。
5年前、僕が彼女と付き合い始めてから、彼女の名前にもう「さん」を付けなくなったし、彼女に僕を弟として扱わせることもなくなった。
僕たちは姉弟じゃなくて恋人同士なんだと、何度も何度も彼女に言い聞かせてきた。それどころか、そのことで彼女に腹を立てたことだってある。
清美は胸の中に浮かんだ疑問をいったん押し込め、部屋を見回す。そして、すぐに不満そうに口を開いた。
「部屋こんなに散らかってるじゃない。ついでに片づけてくれない?
夕飯は?お腹空いたんだけど」
僕はわけが分からず、呆然とする。この人、距離感ってものがないのか?誰に対しても、当然のように人を使うタイプなのか?
僕が動かないのを見ると、清美の眉間の皺はますます深くなる。そして僕の手にある写真を見た瞬間、突然こちらへ駆け寄り、写真を奪い取って引き裂いた。
「言ったでしょう。ツーショットを撮って、証拠を残したりしないでって。私たちの秘密の恋を、他の人に知られるわけにはいかないの」
突然態度を豹変させた清美を見て、僕は固まる。
彼女と僕が、秘密の恋人?
僕の記憶では、彼女には恋人がいるはずじゃないのか?
確かに、僕も彼女に多少興味がないわけじゃない。けれど、だからといって人の恋人を奪うような真似までするほどじゃない。
「清美さん、本当に人違いじゃない?」
清美の声はさらに低くなり、ますます僕を責め立てる。
「靖樹、何をとぼけてるの?ここ数日、私が唯斗と一緒にいて帰ってこなかったから、怒ってるんでしょう?
唯斗は8年間も国に帰ってきてなくて、こっちの生活リズムにもついていけないの。だから何日か彼のそばにいて、何が悪いの?いちいち嫌味を言う必要がある?
あなたが神経質で、何でも悪く考えるから、私はあなたのそばにいたくないのよ」
この人、もしかして頭がおかしいんじゃないか?
恋人と過ごしてるのはそっちだろ。なんで僕に喧嘩を売ってくるんだ?
僕はため息をつく。相手にするだけ無駄だ。そう思って、僕はさっさとドアを開けて出ていこうとする。
すると清美は慌てて二歩ほど駆け寄り、僕の服の裾を掴む。その表情は、さらに険しく歪んでいる。
「まだ意地を張るつもり?唯斗に嫉妬するの、もうやめてくれない?そんな器の小さいことをされると、本当に疲れるの」
相手が姉の友人だからと、僕は何度も何度も我慢する。
それなのに、清美はどんどんつけ上がる。
僕が何も言わないから、言い返さないから、いくらでも好きにしていいと思っているのか?
僕は彼女の手を振りほどき、思わず怒鳴る。
「おい、大丈夫か?
僕がいつ君と付き合ったんだよ!そんな噛みつくような顔して、誰が君なんか好きになるんだ!」
清美は信じられないものを見るように僕を見つめる。
「私にそんなこと言うの?靖樹、もう別れる!」
この瞬間、僕にはもう我慢の限界が来ている。
僕は感情のこもらない声で、反射的に答える。「いいよ。じゃあ、別れよう」
そのまま僕は家を出る。
清美は困惑した表情を浮かべ、声にはわずかな動揺が滲む。「どうして……まさか、本当に記憶を失ってるの?」
けれど次の瞬間、親友たちのグループチャットに届いたメッセージを見て、彼女は一気に肩の力を抜く。
「清美、靖樹はどうやら、清美が記憶喪失を装う計画に気づいたみたい」
動画の中で、僕は個室の前に立っている。目は真っ赤に充血し、ドアノブを強く握っている。それでも、僕はドアを開けて中へ入ろうとはしない。
清美は思わず吹き出した――ほんと、可愛い弟分ね。自分が何気なく言った一言を、まさか本気にするなんて。
記憶喪失の演技、ほんとに上手なんだから。
僕はその場を離れると、そのまま実家へ帰る。
家の前まで来たところで、僕は思わず足を止める。
どうも、ここへ帰ってくるのはずいぶん久しぶりな気がする。
なのに、僕の記憶では実家を出たのは、つい昨日のことだ。
僕はドアを開けて中へ入る。
家にいたのは、姉の璃子だけだった。
「まあ、珍しい。秘密の彼女をほったらかして、今日は私たちの顔を見に帰ってきたの?」
僕はぽかんとする。僕に彼女なんていたか?
「まだとぼけるつもり?」
璃子はそう言って、僕がこっそりSNSに載せていた二枚の写真を取り出す。そこに写っていたのは、一組の婚約指輪。
指輪の内側には、はっきりと刻印が入っている――Y love K
第4話
もう一枚の写真には、僕が一人の女性の手を握っている姿が写っている。二人の指はしっかりと絡み合い、指には指輪まで嵌まっている。
写真を見ても、僕はまったく信じられない。
婚約指輪に刻印まで入れるなんて、そんなクサい真似を僕がするわけがない。
「お姉ちゃん、よっぽど暇なんだな。こんな画像まで加工して、僕をからかうなんて。
最近の結婚しろ攻撃って、そこまでぶっ飛んでるのか?」
璃子が幽霊でも見たような顔をしているのも気にせず、僕はそのまま自室へ戻って休む。
璃子は僕の後を追って部屋に入ってくる。
「ねえ、靖樹、プロポーズに失敗して頭がおかしくなったんじゃないでしょうね?」
僕は額を押さえる。
「違う。ただ、記憶を消す手術を受けて、いろんなことを忘れただけだ。
理由は聞かないでくれ。僕自身が忘れたんだから」
璃子は冗談めいた表情を引っ込め、僕を見る目に深い心配と哀れみを浮かべる。
「ゆっくり休みなさい」
そう言い残して、彼女は部屋を出ていく。
その後、誰かに僕のここ数日の行動を調べるよう指示している声が、ぼんやりと聞こえてくる。僕は気にせず、そのまま深い眠りに落ちる。
翌朝、スマホの着信音に叩き起こされる。
僕の部下だという同僚から電話がかかってきて、こう言われる。
「早瀬社長が怒っています。今すぐあの化粧品会社に来ないと、クビにされますよ」
僕が、そんな規則正しく毎日会社へ通う人間だったのか?それに、僕はいつから化粧品なんかに興味を持つようになった?
この8年間、僕はいったい誰として生きてきたんだ?
疑問を抱えたまま会社へ向かうと、部下が早足で駆け寄ってくる。
「早瀬社長が突然、出退勤の管理を厳しくし始めたんです。それで、竹内主任が4日も無断欠勤して重大な規則違反をしたって、ものすごく怒っています。クビにするって息巻いてますよ」
上司の執務室まで行き、そこにいる早瀬社長の姿を見た僕は、思わずため息をつく。
また清美か。
まさか、本当に僕は彼女と秘密の恋愛をしていて、そのために自分の人生をめちゃくちゃにしてしまったのか?
僕が考え込んでいると、すぐそばのソファに座っている男の存在に気づくのが遅れる。
「竹内主任、4日も無断欠勤して、しかも先頭に立って仕事をサボるなんて、私に対する抗議のつもり?」
清美は僕の返事も待たず、淡々と言葉を続ける。
「会社の規定では、正当な理由のない無断欠勤は解雇処分よ。でも、あなたは創業当初からいるメンバーだし、今は『碧海の青』のプロモーション期間でもある。だから、もう一度だけチャンスをあげる。
あなたは主任の座を唯斗に譲って、これからは宣伝部のチームリーダーをやって」
僕は眉をひそめる。誰が、そんなチームリーダーなんて欲しがるんだ。
「異動する必要はありません。僕はそのまま辞めます」
清美が口を開くより先に、隣の男が割って入る。「清美、人を見る目が落ちたんじゃないか?こんな融通の利かない主任に、会社のプロジェクトを任せられるのか?それに根性もない。何かあるたびに辞めるって言って、社長を脅すような奴だ」
清美の顔が一気に険しくなる。細い眉が怒りで吊り上がる。
「竹内、いい加減にして。これは仕事よ。公私混同しないで」
僕は冷めた目で答える。「本気で言ってます。辞めます。僕にはこの仕事は向いてません」
すると唯斗が突然、俯いて寂しそうな声を出す。
「ひょっとして、俺が入ってきたから怒ってるのかな。5年間もこれだけ多くのプロジェクトを任されてきたのに、向いてないなんてことある?だったら、こうしない?竹内君はそのまま主任を続けて、俺がそっちの下で働く。それでいいだろ?」
清美は痛ましそうに唯斗を見る。けれど僕へ向ける視線には、明らかな苛立ちが混じっている。
「靖樹、もう駄々をこねるのはやめて。今は『碧海の青』の発売を控えた大事な時期なの。会社には唯斗の力が必要なのよ。
こうしよう。あなたは主任という肩書きだけ唯斗に譲る。でも、実際の権限はこれまで通りあなたが持つ。唯斗はあなたをサポートする。
それと、給料は5割アップする。これが私にできる最大限の譲歩よ。これ以上、わがままを言わないで」
僕は思わず白い目を向ける。目の前で勝手なことばかり言っているこの女が、本当に僕の恋人なのか?
この2日間、彼女は僕に怒るか、僕をこき使うかのどちらかだ。一度だって落ち着いて、僕が何を望んでいるのかを聞こうとしない。そこには、僕が愛されていると感じられるものなんて、何一つなかった。
第5話
僕はうんざりしたように首を振り、辞職の意思を貫く。そして、付け加えるように言った。
「過去8年間、僕がどんなふうに生きてきたのかは分からない。でも、今だけははっきりしている。僕は君と別れる」
清美は信じられないというように目を見開き、目尻が少しずつ赤くなっていく。
「たかが役職のことで?靖樹、何を子供みたいなこと言ってるの。私は全部、私たちの会社のためにやっているのよ」
唯斗はいたわるように彼女の肩を叩き、それから僕に向き直って真面目な口調で話し始める。けれど、その口元は明らかに笑っていた。
「竹内君、5年も付き合ってきたんだろう?感情的になって、簡単に別れるなんて言っちゃだめだよ。
もし俺のせいなら、会社には入らない。それでいいだろ?子供みたいに意地を張るのはやめなよ」
目の前の偽善者を見ていると、ただただ吐き気がした。
もう我慢する気もなく、僕はそのままドアへ向かう。
すると清美が突然、僕を呼び止めた。
「靖樹、待って!もしここを出て行ったら、本当に終わりだからね!」
僕は冷たく笑う。
「望むところだよ」
自分のデスクで荷物をまとめていると、清美が追いかけてきて僕の腕を掴む。プロジェクトの資料を引き継いでいないから、まだ帰ることは許さないという。
僕はパソコンのパスワードを削除し、ハードディスクに保存していたプロジェクト資料をすべて移す。
それでも清美は引き下がらない。
揉み合いになる中、彼女は僕のハードディスクを床に落とし、そのまま壊してしまった。
その中には僕が何年もかけて集め、整理してきた建築資料や図面が入っていた。
今まで感情を抑えていた僕の顔に、初めて怒りが浮かぶ。「一体、どうしたいのか?」
それを聞いた清美は、なぜか満足そうに口を開いた。
「あなたに、これからも会社に残って私を支えてほしいの」
「もし断ったら?」
清美は僕の耳元に顔を寄せ、低い声で言う。「その時は、唯斗との関係を正式に公表する。あなたは、この恋から最初から存在しなかったことになるわ」
僕は、目の前で僕を脅す女を見て、ただうるさいとしか思えなかった。
「好きにすればいい」
会社を出たあと、僕は真っ先に昔の恩師へ連絡を取る。
「先生、僕は間違っていました。研究を辞めたことを後悔しています。今でも研究チームに、僕の居場所はありますか?」
恩師は机いっぱいに積まれた建築図面を前にしながら、ぶっきらぼうに言う。
「何を勝手なことを言っとる。学術研究というのは、辞めたい時に辞めて、戻りたい時に戻れるものじゃない」
僕は申し訳なさで何度も頭を下げる。声まで震えていた。
「本当にすみません。この数年、建築研究から離れて初めて気づきました。僕はこの仕事を心から愛していたんです。研究に没頭している時だけが、本当に幸せでした。どうか、もう一度だけ機会をいただけませんか」
恩師はため息をつく。「仕方ないな。だが、長い間離れていたんだ。腕は鈍っているだろう。研究チームに戻るなら、基礎の製図からやり直しだ」
僕は迷わず頷く。研究チームに戻れるなら、それだけで十分だ。もう一度、自分の力を取り戻す機会があるのだから。
その頃、清美は落胆した様子で社長室へ戻っていた。怒りのせいで、目元は赤く染まっている。
唯斗は彼女を抱き寄せ、優しくなだめる。「竹内君はただ感情的になっているだけだよ。子供みたいなものだから、少し機嫌を取れば大丈夫さ。
そうだ。数日後の俺の帰国祝いのパーティーに、もっと友達を呼ぼう。そして、みんなの前で竹内君にサプライズをして、正式に交際を発表するんだ。きっと彼も、この数年間ずっと秘密の恋人だったことを寂しく思っていたんだろう」
清美は申し訳なさそうに彼を見る。「でも、それじゃ唯斗の帰国祝いが台無しになるわ」
「構わないよ。清美があちこち気を遣わなくて済むだろ?」
僕が家に帰ると、いつも気丈な璃子が、机いっぱいに並べられた写真を前に涙を流していた。
写真に写っているのは、すべて僕だ。
清美の会社で昼夜を問わず働いている姿、彼女の代わりに接待へ出て何度も胃を痛めて入院した姿、清美のために料理を作って手に傷を残した姿、家事をして彼女の生活を支えている姿……
僕が家と会社を往復する毎日を送っていた頃、清美は頻繁に出張と称して海外へ行き、唯斗と会っていた。
璃子は写真を整理しながら、悔しそうに言う。
「昔、靖樹が3年間も夢中になって彼女を追いかけていたのに、急に彼女へのアプローチを人前でしなくなった時点で、私は二人が付き合い始めたって気づいていたのよ」
第6話
「でも、あの子が靖樹にこんなにも辛い思いをさせていたなんて、私は知らなかった。こんな仕打ち、お姉ちゃんが絶対に許さないから」
頭の中の光景が少しずつ鮮明になっていく。けれど、僕の心には何の波も立たない。
僕は璃子の腕を軽く叩く。「本当に忘れたんだ。僕はもう一度、建築を学び直すつもりだ。今度こそ、自分が本当に好きなことをする。お姉ちゃん、僕はこれから幸せになるよ」
璃子はまだ何か言おうとしたが、スマホの通知音に遮られる。
清美がSNSに投稿していた。【唯斗の帰国を祝って、3日後にパーティーを開きます。当日は重大発表もありますので、皆さん、ぜひお越しください】
しかも、その投稿にはわざわざ僕と璃子の名前までタグ付けされている。
この人、また何を考えてるんだ?こんなことをすれば、僕が嫉妬するとでも思っているのか?
コメント欄では、発表されることが何なのか、みんなが好き勝手に予想している。その中でも多いのは、清美と唯斗がいよいよ結婚するのではないかという祝福のコメントだった。
璃子が心配そうに僕を見る。僕が傷ついていると思っているらしい。
けれど僕の顔には、何の変化もない。むしろ、少し呆れたような表情さえ浮かんでいる。
「行きたい?」
僕はどうでもいいというように答える。
「行こう。僕の8年間に、別れを告げるためにもな」
3日後。パーティー会場に到着した僕は、入った途端に周囲のひそひそ話を耳にする。
「こいつが唯斗から彼女を奪った男だよ。唯斗を海外に8年間も追いやったんだって。さっきも個室で泣いてたらしいぞ」
「清美も可哀想よね。こんな男に付きまとわれて、自分で立ち上げた会社まで握られてるんだから」
「この二人、8年間も遠距離恋愛なんだって。清美が海外まで会いに行けるのも、年に一、二回だけだったらしい」
「今日は唯斗の帰国祝いまで乗っ取って、清美に無理やり告白させるつもりなんだろ?この男、本当に図々しいな」
僕は完全にわけが分からなくなる。この人たち、一体何を話してるんだ?
璃子は何かに気づいたような顔をして、僕をその場から連れ出す。
「靖樹はどこかで何か食べて休んでなさい。私が何が起きてるのか調べてくる」
僕が腰を下ろして間もなく、スーツ姿の唯斗が僕のところへやってくる。
目は真っ赤で、まるで今まで泣き続けていたような顔をしている。
「竹内君、もう8年間も清美を縛りつけてるんだろ?そろそろ、彼女を俺に返してくれないか?」
何を言ってるんだ、こいつは。僕は露骨に嫌そうな目を向け、そのまま背を向けて立ち去ろうとする。
ところが唯斗は突然、僕の手を強く掴む。そして、僕の目の前で跪いた。
「もし彼女を手放すつもりがないなら……せめて、彼女を大切にしてくれないか?
清美は最近、竹内君のせいで食事もろくに喉を通らないんだ。もう彼女を無視して苦しめるのはやめてくれないか?」
僕は反論しようとする。その瞬間、唯斗の指に嵌まった指輪が目に入る。
そこに刻まれた英字に、僕は妙な既視感を覚える。
何かを思い出しかけた、その時――遠くから、カツ、カツ、とハイヒールの音が近づいてくる。
清美が突然こちらへ駆け寄ってきて、僕をそのままプールへ突き落とした。
「あんたがこんな卑怯な人だったなんて、思わなかった!
私、今日ここであんたとの関係を正式に発表しようと思っていたのに……あんたなんか、そんな資格もない!」
けれど僕は、泳げない。水の中で必死にもがく。
それなのに清美は、まるで気にも留めない。「もう演技はやめて。ここのプールは2メートルしかないんだから、溺れたりなんかしないわ。
あなたが唯斗をいじめたんだから、ちょっと懲らしめてるだけ。それに、記憶喪失のふりをして私を騙したでしょう?」
僕の意識が薄れていくその瞬間、一人の女性が水へ飛び込み、僕を引き上げてくれた。
璃子はそのことを知ると、すぐに駆けつける。そして清美の頬を思いきりひっぱたいた。彼女は目を真っ赤にし、声を震わせながら叫ぶ。
「靖樹はあなたのせいで、8年間の記憶を消す手術まで受けたのよ!あの子はもう、とっくにあんたのことを忘れてる!
これ以上、靖樹につきまとわないで。もしまだ絡んでくるなら――あんたの会社、私が潰すから!」