第1章
観光地で写真を撮るとき、私・若嶋静恵(わかしま しずえ)は何度も場所を変えながら、一番きれいに写るアングルを探している。
カメラを恋人の加久間廉太(かくま れんた)に向け、大声で何度も呼びかけた。
「廉太!こっち向いて」
けれど、聞こえていないのか、廉太は少し離れたところをじっと見つめている。
そこへ、撮影が下手な親友・西内アリス(にしうち ありす)がスマホを取り出し、廉太に声をかけた。
「廉太!カメラ見て!」
すると廉太はすぐに姿勢を整え、アリスのカメラに向かって、愛おしそうな甘い笑みを浮かべた。
それを見ていた若い夫婦が、アリスのスマホの画面を覗き込み、微笑ましそうに冷やかした。
「わあ、きっと彼氏さんにすごく愛されてるのね。写真の彼、目がキラキラしてるわ!」
アリスの顔は一気に真っ赤になり、廉太は気まずそうに咳払いをした。
私はうつむいてスマホの画面を確認した。
そこに写っているのは、彼の横顔のほんの一部だけ。まるで週刊誌の記者が隠し撮りしたみたいな一枚だ。
物心ついたころからずっと、二人は当たり前のように私を無視し、私には何の考えもないと決めつけていた。
学生のころは、遊びに行く場所をいつも二人が楽しそうにはしゃぎながら決め、私がついてくるのが当然だと思っていた。
進路を決めるときも、二人で医者を目指すことにして、私も当然賛成するだろうと思い込んで、勝手に私の分まで医学部に願書を出していた。
その後、二人は病院で「救命救急センターの名コンビ」と呼ばれるようになったけれど、私はどれだけ必死に頑張っても、フェローの修了が認められなかった。
ふと顔を上げると、二人はもう肩を並べて次の撮影スポットへ向かっている。
きっと、私がついてくるのを当たり前だと思っているのだろう。
けれど私は、二人とは反対の方向へ歩き出した。
ずっとあの二人の後ろをついていくだけの、影のような存在だった。
でも、そんな私にだって、ついていきたくない日くらいある。
第1話
廉太が私の不在に気づいたのは、それから3時間後だ。
送られてきたメッセージの内容は、ひどく冷たい。
【どこほっつき歩いてるんだ?入口の売店で飲み物を買ってきてって言っただろ?また道に迷ったのか?】
用があるときにしか、私の存在を思い出してくれない。
これが何度目なのか、もう覚えていない。
私は返事をせず、そのまま手元の仕事を続けた。
ちょうど病棟の回診から戻ってきた同僚が、私を見て不思議そうに首をかしげた。
「有休をまとめて取って、加久間先生と西内先生と遊びに行ってたんじゃないの?どうしてこんなに早く戻ってきたの?」
カルテを書いていた手が止まった。
廉太とアリスは息の合った連携で難易度の高い救急手術を1件こなせば、それだけで1週間の特別休暇がもらえる。
なのに私は、二人と遊びに行くために、大切な有休を切り崩さなければならない。
心待ちにしていた旅行の間、自分が透明人間になったように感じた。
それからさらに3時間ほど経った頃、アリスが大きなぬいぐるみを抱えて医局までやってきた。
いたずらっぽくウインクして、私に言った。
「若嶋先生、これ、私と加久間先生がカップルのふりをしてゲットした景品なんだよ。二人で30分もハグし合ったんだから、もうくたくた!
でも、大事な親友を喜ばせるためなら、そんなの平気だよ」
さっき、私もあのハグゲームに参加しようと提案した。
けれど廉太は、そっけなく「子どもっぽい」と言っただけだった。
だから私は、それ以上言わなかった。
なのに、アリスが参加したいと言えば、彼はあっさり彼女とカップルのふりをしてやった。
本当のカップルは、彼と私なのに。
胸の奥に何かが詰まっているみたいで、なんとも言えない息苦しさがこみ上げてきた。
私が受け取らずにいると、廉太はしぶしぶぬいぐるみを私の腕に押しつけた。
「さっき何も言わずにいなくなって、西内先生だって若嶋先生のこと心配してたんだぞ。何をそんなに不機嫌そうな顔をしてるんだ?」
その瞬間、周りにいる同僚たちが、一斉に私へ蔑むような視線を向けた。
アリスは振り返って廉太をひと睨みすると、今度は私をなだめるような声をかけた。
「いつも言い方きついんだから、気にしないで。
若嶋先生、写真のこと、まだ気にしてるの?だったら見せてあげる。私のスマホ、加久間先生の変な写真がいっぱいあるんだから!」
仕返しでもするみたいに、彼女はアルバムを開いて見せてきた。
いつもは真面目で堅苦しい男が、彼女のスマホの画面の中では、おどけたりふざけたりしている。
けれど私のスマホのアルバムにある1267枚の写真には、さまざまなアングルから隠し撮りしたかのような彼の姿しかない。
廉太はアリスの肩をぐっと抱き寄せ、脇腹をくすぐった。
「他人に勝手に見せるなって言っただろ。どうなるか思い知らせてやる」
「ははは、ごめんなさいってば!」
私は呆然と立ち尽くしている。まるで本当に、廉太の言う「他人」に過ぎないかのように。
そしてまっすぐ上の階へ上がり、院長室の扉を叩いた。
「院長、海外研修の件、ぜひ行かせていただきます」
院長は嬉しそうに顔を輝かせたが、すぐに心配そうな表情を浮かべた。
「行くと決めてくれたのは嬉しい。でも、君の指導医には相談したのか?」
私の指導医――それが廉太だ。
この病院に入ったばかりのころ、私もアリスも、彼の指導を受けるフェローだった。
けれど、フェローを修了できたのはアリスだけだった。
フェロー期間中、私は一度もミスをせず、さらに3度も命を救う功績を挙げた。それでも廉太は、「それが仕事だろ」と言った。
徹夜でカルテを整理し、丸1日家に帰らなかったときも、「要領が悪いから人一倍頑張るしかない」と言われた。
アリスが一人でてんかん発作の患者を救命したとき、廉太は院長室に何通もの推薦状を送り、アリスが特別に早期修了できるよう取り計らった。
やがて私は、二人に追いつこうとすればするほど、その距離が開いていくのだと、少しずつ気づかされた。
私は首を横に振り、吹っ切れたように笑った。
「相談する必要はありません。これは私が自分で決めたことです」
第2話
夜、病院を出たときには、外はもう嵐になっていた。
廉太は、たった一本しかない傘を開くと、ごく自然な仕草でアリスを腕の中に抱き寄せた。
そして傘を忘れた私は、二人の後ろで呆然と立ち尽くしている。
廉太は一瞬きょとんとしてから、後ろにいる私へ声をかけた。
「先にアリスを車まで送る。それから戻ってきて、静恵を迎えにくる」
私が何か言うより早く、彼はアリスを庇うようにして、大雨の中へ駆け出していった。
外の風は冷たく湿っていて、私は何度もくしゃみをした。
1時間ほど経ち、私は寒さにぶるぶると震えながら、廉太に電話をかけた。
何度もかけ直すこと20分、ようやく電話がつながった。
向こうからゲームの効果音が聞こえ、廉太の声には、邪魔された苛立ちと一瞬の戸惑いが滲んでいる。
「悪い、忘れてた。
お前も本当にバカだな。俺が戻ってこないなら、タクシー拾って帰ればいいだろ。ずっと待ってることないだろ。
そこで待ってろ。タクシー呼んでやるから」
次の瞬間、電話の向こうからアリスの不満そうな声が飛んできた。
「早くカバーしてよ、負けちゃう!」
電話は容赦なく切られた。
私は病院の前に立ち尽くしたまま、顔を雨と涙でぐしゃぐしゃに濡らしている。何度拭っても拭ききれない。
雨の中を3キロも走って、ようやく一台のタクシーを拾った。
運転手がティッシュを差し出しながら、心配そうに声をかけてくれた。
「この辺り、最近は女性を狙った事件がよく起きてる。こんな雨の日に、よく一人で走り回れるんだ。彼氏さんは迎えに来てくれないのか?」
その言葉を聞いて、私は今さらながら自分がどれだけ危なかったのかと思い知り、背筋に冷たいものが走った。
確かに最近、病院の近くには柄の悪い連中がうろついている。
そのことを知った廉太は、通販で防犯スプレーを買い、アリスのカバンに入れて持たせていた。
けれど私の分はなかった。
私の目から光が消えたのを見て、廉太は私をぎゅっと抱き寄せた。
「彼氏の俺が守るんだから、そんなもの要らないだろ?」
でも今の私は、防犯スプレーもなければ、守ってくれる人もいない。
家に帰り、玄関を開けた瞬間、廉太がアリスの髪を乾かしてあげているのが目に入った。
しかもアリスが着ているのは、私と廉太のお揃いのパジャマだ。
物音に気づいた廉太は、ドライヤーを止めると、少し険しい顔をした。
「やっと帰ってきたか。俺もアリスも、静恵のことが心配で仕方なかったんだぞ。もう少し遅かったら探しに行ってた」
二人はお揃いのパジャマを着て、風呂まで済ませ、髪も乾かしている。
どう見ても、私を探しに出るつもりには見えない。
目の奥が熱くなり、今さらこみ上げてきた悔しさが、一気に口から溢れた。
「夜中に私が危ない目に遭うかもしれないって、考えたことあるの?廉太の彼女は私なの。アリスじゃなくて……」
廉太の表情が、一瞬だけ固まった。
アリスの顔はみるみる真っ赤になり、彼を突き飛ばすと、振り返りもせず部屋を飛び出していった。
廉太は「ちっ」と舌打ちして後を追おうとしたが、ふいに足を止めた。
「今日はどうしたんだ?そんなに怒って。自分がバカなくせに八つ当たりするな。
明日は俺とアリスが当直だ。オペが入ったら助手に入ってくれ。それで帳消しにしてやるから」
そう言い残すと、彼は振り返りもせず、アリスを追って出ていった。
私は全身ずぶ濡れのまま、その場に立ち尽くしている。ズボンの裾も、足元も、泥だらけだ。
待たせられたのは、いつだって私だ。
「嫌だ」と言うことすら、許されない。
翌朝、私はぼんやりと目を覚ました。
体温を測ると、40度近くある。
意識は熱にうなされるように揺らぎ、まぶたを持ち上げる力さえない。
10回以上電話をかけたのに、廉太もアリスも出なかった。
仕方なく、私は病院の救命救急センターに電話をかけた。
廉太の声が聞こえた瞬間、藁にもすがる思いだ。
「廉太……私、熱が出て……」
「なんだ、お前か」
彼の声色が、途端に変わった。
「俺が電話に出ないからって、病院にまでかけてくるのか?お前も医者だろ。仕事を何だと思ってるんだ?」
第3話
向こうから、アリスの今にも泣き出しそうな声が聞こえた。
「母が急に足を挫いちゃって、今全然動けません。さっき救急車を呼んで、うちの病院に向かっているところです。加久間先生、受け入れの準備お願いします……」
彼女の泣き声が、私の助けを求める声をすっかり掻き消した。
すぐに、電話は切れた。
結局、私が出勤時間になっても現れないことに気づいた同僚が救急車を呼び、私は病院へ搬送された。
次に目を開けたとき、センター長が私を見て、ため息をついた。
「高熱による脳へのダメージは不可逆的だ。若嶋先生だって医者なんだから、わかるだろう」
わかっている。
でも指導医である廉太なら、私よりずっとよくわかっているはずだ。
廉太が私の発熱と入院を知ったのは、もう真夜中を過ぎてからだ。
ちょうど病棟の巡回から戻ったところで、白衣を脱ぐ暇もなく、枕元のカルテを手に取った。
「まだ熱が下がりきってないな。もう1本点滴を足して様子を見よう」
私の額に触れる手つきは、とても優しい。
けれど、私の目は冷え切っている。
「私が熱を出したって言ったのに、どうして助けてくれなかったの?」
廉太の手が止まり、眉間にしわが寄った。
「年寄りと若い奴は違うだろ。アリスのお母さん、もし骨折してたらどうするんだ?医者なら、どっちが重症かくらいわかるだろ」
でも、彼の座右の銘は――「どんな患者も平等に扱う」だったはずだ。
そこへアリスが入ってきて、顔には申し訳なさが浮かんでいる。
「うちの母が、よりによってこんなときに怪我しちゃって……そうじゃなかったら絶対に廉太をいち早く家に帰らせたのに。そうしたら静恵の体調が悪化して、入院することだってなかった……」
廉太は私を冷たい目で一瞥すると、アリスを低い声で慰めた。
「急なことなんだから、タイミングも何もないだろ。静恵は昔から一番手がかかるんだ。アリスも知ってるだろ」
私は声を落として言った。
「足の捻挫ぐらい、他の先生でも十分対応できたでしょ」
廉太の目に浮かびかけていた笑みが消え、代わりに苛立ちが滲んだ。
「こうして無事だったんだからいいだろ。
あのときアリスが泣いてたから、俺もパニックになってそこまで頭が回らなかったんだ。静恵ならいつだって自分のことくらい何とかできると思ってたしな」
もしかしたら、私が泣いていれば、廉太が話を聞いてくれたかもしれない。
もしかしたら、廉太にとって、何を差し置いても優先されるのは、最初から私じゃなかったのだ。
けれど今回ばかりは、一歩間違えば命を落としていたかもしれない。
これまで軽く扱われてきたこととは、事態の重みがまるで違う。
遅れて込み上げてきた悔しさが、喉に詰まったように感じた。
私はその苦い思いを飲み込み、静かに言った。
「廉太、別れよう」
そう言って、背を向け、目を閉じた。
後ろからアリスが私の服の裾をつかみ、今にも泣き出しそうな声で言った。
「静恵、本当にごめんなさい。私が悪いんだから、怒らないで……」
次の瞬間、背後から廉太の苦笑が聞こえた。
「アリス、真に受けるな。静恵が本気で言ってるわけないだろ。
どうせTikTokか何かで、弱ったふりをして気を引くやり方でも覚えたんだ。
前は何があっても怒らなかったくせに、最近急に態度が変わって、マジで意味が分からん」
二人はまた、いつものように無口な私を笑いものにしている。
けれど二人とも、私のスマホに航空会社から1件の通知が届いたことには気づかなかった。
第4話
海外研修へ旅立つ前の最後の手術で、私は廉太とアリスの助手を務めた。
ひどい交通事故に遭った男性患者で、容体はかなり厳しい。
手術中、私は患者のバイタルを正確に報告している。
「心拍数120です。薬を投与してください」
ところが、アリスは間違って、心拍数125に対応する用量を投与してしまった。
モニターが鋭い警報音を響かせた。
執刀医である廉太が、突然、厳しい声を張り上げた。
「二人とも手を引け!松永(まつなが)先生と交代だ!」
3時間に及ぶ救命措置の末、二人は息を合わせて手術を終え、無事に成功させた。
廉太は手術室から出ると、マスクを外した。
その顔は、ひどく暗い。
「さっきのはどういうことだ?こんな初歩的なミスまでやらかすのか?」
アリスはたちまち目を潤ませ、唇を噛んだ。
「でも、私が聞いたのは確かに125でした。聞き間違えちゃった私が悪いんです……」
廉太の疑うような視線が、瞬時に私へ向いた。
私は神経が張り詰めて、慌てて説明した。
「加久間先生が聞いていたでしょう。私が言ったのは120です」
廉太の目には、あからさまな苛立ちが滲んでいる。
「間違えたならちゃんと認めるんだ。自分で責任を取れ。
今年もフェロー修了は認めない」
1日も早くフェローを修了して、一人前の医者になるために、私は誰よりも、何十倍も努力してきたのに。
病院を自分の家のように思い、24時間ぶっ通しで働くことだって珍しくなかった。
目を真っ赤にし、声を掠らせながら訴えた。
「他の先生方はみんな、私の実力を認めてくださっています」
返ってきたのは、廉太の冷たい一言だけだ。
「指導医は俺だ」
彼の後ろに立つアリスが、わざとらしく可哀想ぶった顔から、まるで「してやったり」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
5年間、ひたすら真面目に働いて、心身をすり減らしながらここまでやってきた努力が、この瞬間、すべて水の泡になった。
フライトの出発まで、あと5時間。
私は医局で荷物を段ボール箱に詰めた。
他の医師たちは、まるで腫れ物に触るような目で私を見つめ、遠巻きに避けている。
そこへ、廉太が新しいフェローたちを連れてやってきた。
「今回はそこまできつく罰するつもりはない。今年分のカルテ整理、お前一人でやれ。お前が一番几帳面だし、向いてるだろ。
それから始末書を5000文字以上に書いて、患者とそのご家族に謝罪すれば、この件はそれで終わりだ」
彼は私を見下ろすように見つめた。
私がいつものように惨めにうつむき、何度も頭を下げて謝るのを待っているようだ。
でも、私は一言も発しなかった。
重たい段ボール箱を抱え、そのまま足早に病院を出た。
廉太から始末書を出せと催促のメッセージが届いた頃、私はすでに離陸を待つ飛行機の機内にいる。
……
アリスはペナルティとして居残り業務を命じられ、廉太は病院で丸3日間、ずっと彼女に付き添っている。
彼は頭の中で、ちょうどいい機会だからもう少し静恵を放っておこう、と考えている。
3日後、アリスの居残り業務が終わると、廉太は医局へ向かい、静恵を連れて一緒に帰ろうとした。
けれど静恵の姿が見当たらない。
廉太は同僚の一人に声をかけた。
「若嶋先生を見てないか?」
同僚は驚いたように廉太を見つめ、彼の胸を凍らせるような一言を口にした。
「加久間先生、知らなかったの?若嶋先生ならもう海外研修へ発ったよ」