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君だけのノートを閉じたあの日から
高校の3年間、私・篠宮澄香(しのみや すみか)は黒瀬朔(くろせ さく)に片想いをしていた。 朔は私の後ろの席で、授業についていけなくなるたび、椅子の背を軽く蹴った。 そうすると私は、細かな字でびっしり埋まったノートをすぐ後ろへ回した。 それが、二人だけの合図なのだと思っていた。 けれど昨日、生徒の間で使われている匿名掲示板で、こんな投稿を目にした。 【黒瀬朔って最近、急に勉強し始めたよね。高峰玲花(たかみね れいか)と付き合いたいから?】 【決まってるじゃん。玲花が南陵大を目指すって言った途端、黒瀬も南陵大の入試情報を調べ始めたんでしょ。不良が恋のために勉強するとか、尊すぎる】 【でも最近、学年首位の篠宮澄香から毎日ノート借りてない?】 【成績を上げて、玲花と同じ大学に行くためでしょ。篠宮なんて、せいぜい都合のいい踏み台だよ】 私は「都合のいい踏み台」という言葉を、いつまでも見つめていた。 翌日、朔はまた私の椅子を蹴った。 今度は振り向かなかった。 ノートも渡さなかった。
チャプター (1)
第1章
高校の3年間、私・篠宮澄香(しのみや すみか)は黒瀬朔(くろせ さく)に片想いをしていた。
朔は私の後ろの席で、授業についていけなくなるたび、椅子の背を軽く蹴った。
そうすると私は、細かな字でびっしり埋まったノートをすぐ後ろへ回した。
それが、二人だけの合図なのだと思っていた。
けれど昨日、生徒の間で使われている匿名掲示板で、こんな投稿を目にした。
【黒瀬朔って最近、急に勉強し始めたよね。高峰玲花(たかみね れいか)と付き合いたいから?】
【決まってるじゃん。玲花が南陵大を目指すって言った途端、黒瀬も南陵大の入試情報を調べ始めたんでしょ。不良が恋のために勉強するとか、尊すぎる】
【でも最近、学年首位の篠宮澄香から毎日ノート借りてない?】
【成績を上げて、玲花と同じ大学に行くためでしょ。篠宮なんて、せいぜい都合のいい踏み台だよ】
私は「都合のいい踏み台」という言葉を、いつまでも見つめていた。
翌日、朔はまた私の椅子を蹴った。
今度は振り向かなかった。
ノートも渡さなかった。
第1話
私は朔の机から自分のノートを取り戻した。
ページは解法の手順やつまずきやすい箇所、頻出事項で隙間なく埋まっていた。
以前、隣の席の小宮山千紘(こみやま ちひろ)がそれをめくり、目を丸くしたことがある。
「澄香、このノート細かすぎない?学年トップでも、ここまで書くの?」
頬が熱くなるのをごまかしながら、私はこう答えた。
「復習しやすいから」
本当は違った。
このノートは朔のために作っていた。彼が読んでも分かるように。
朔は目を引く顔立ちをしていたが、近寄りがたかった。
制服はいつも着崩し、黒い鞄を無造作に肩に掛けていた。
授業中は寝ているか、ぼんやり窓の外を見ているかだった。
教師に当てられると、伏し目がちに立ち上がり、しばらく黙った末に一言だけ答えた。
「分かりません」
教師が腹を立てて教卓を叩いても、顔色ひとつ変えなかった。
どんな言葉をぶつけても、反応ひとつ返さない石のようだった。
本来なら、そんな人には近づかないはずだった。
けれど入学したばかりの頃、私は校舎裏で他校の生徒たちに取り囲まれ、金を出せと脅された。
そのとき朔が、飲みかけのペットボトルを片手に、校舎の角から歩いてきた。
私の前に立つと、相手に向かって言った。
「どけ」
一人が悪態をついた。
朔は目を上げ、そいつを見た。
たったそれだけで、相手は口をつぐんだ。
やがて全員が立ち去ると、朔は屈み込み、散らばった教科書を一冊ずつ拾った。埃を払ってから、私の腕の中へ戻した。
「ありがとう」
小さな声で言うと、朔は私を見もせずに答えた。
「面倒だな」
私が朔を好きになったのは、その日からだった。
そして、我ながら情けないほど一途に好きでいた。
朔が放課後の補習をさぼれば、その日の要点に印をつけた。
授業中に寝ていれば、教師が解説した例題を改めて整理した。
椅子を蹴られれば、ノートを後ろへ回した。
たまに「ありがと」と言われることはあったが、大半は何も言われなかった。
それでも構わなかった。
朔が無口なのは、校内では誰もが知っていたからだ。
むしろ私のノートだけは借りるのだから、朔にとって私は少しくらい特別なのだと思っていた。
昨日の夜、生徒の間で使われている匿名掲示板で、あの投稿を見るまでは。
投稿のタイトルは、こうだった。
【黒瀬朔が最近、急に勉強し始めた理由を知ってる人いる?】
その下には、何百件もの書き込みが連なっていた。
【高峰玲花のために決まってる。玲花、南陵大を目指してるんでしょ?】
【不良が恋のために勉強するとか、無理、尊い】
【でも黒瀬、最近ずっと篠宮澄香からノート借りてるよね……】
【笑わせないで。篠宮なんて、黒瀬が玲花に近づくための踏み台でしょ】
踏み台。
その言葉を見つめているうちに、手足から熱が引いていった。
第2話
翌朝、朔は予鈴と同時に教室へ入ってきた。
いつものように黒い鞄を机の脇へ押し込み、椅子の背にもたれた。
ほどなくして、英語教師が前日のプリントを解説し始めた。
空所補充問題に差しかかったとき、背後から椅子を軽く蹴られた。
こつん。
ペンを握る手が一瞬止まった。
以前なら、朔に椅子を蹴られた途端、ノートを後ろへ差し出していた。
何も言われなくても。
けれど今度は振り向かず、手も動かさなかった。
ただ俯いて、教師が説明した熟語をプリントの余白に書き込んだ。
数秒の沈黙のあと、朔が気だるげに隣の男子に声をかけるのが聞こえた。
「プリント、見せて」
男子は一瞬戸惑い、慌てて自分のプリントを渡した。
「あ、ああ。ほら」
朔はそれを受け取ると、もう何も言わなかった。
私は目を伏せた。
そこでようやく気づいた。
私は、別に特別ではなかったのだ。
必要なら、誰からだって借りられる。
今までの私が、差し出すのを急ぎすぎていただけだった。
休み時間になると、千紘がスマホを手に身を寄せてきた。
「澄香、校内掲示板のあれ見た?黒瀬くんと高峰さんの投稿」
声を潜めてはいたが、好奇心を隠し切れていなかった。
「朔が急に勉強し始めたのは、高峰さんのためだって、みんな言ってるよ。実際、お似合いだよね。札付きの問題児と、学校一の美人。しかも小さい頃からの知り合いで、家同士も付き合いがあるらしいよ」
千紘は私の腕を軽くつついた。
「澄香はどう思う?」
「そうだね」
教科書から目を上げ、千紘を見た。
「お似合いだと思う」
千紘は目を瞬かせた。私の声に何かを感じ取ったらしい。
何か言いかけたところで、廊下から呼ぶ声がした。
「篠宮、担任が呼んでるよ」
私は席を立った。
後ろの席では、朔が俯いたまま何かを見ていた。
職員室へ行くと、担任は答案を採点していた。
私に気づき、まず笑顔を見せた。
「篠宮、最近も成績が安定しているな。このまま共通テストと二次試験の対策を詰めれば、東嶺大も十分狙えるぞ」
「はい。頑張ります」
担任は赤ペンを置いて続けた。
「そういえば、黒瀬もこのところ模試の成績が上がっているらしいな。ずっと篠宮のノートを借りているそうだが」
私は、朔のためだけに作っていたノートを思い浮かべた。
「はい」
担任は小さく息をついた。
「クラスメイトを助けるのは悪いことじゃない。ただ、今は優先順位を間違えるなよ。黒瀬の家には余裕がある。第一志望に届かなくても、選べる道はいくつもあるだろう」
担任は声を和らげた。
「篠宮は違う。自分の力で、一つずつ道を切り開いていかなきゃならない。分かるな?」
私はシャツの端を握った。
「分かっています」
担任は笑い、採点済みの答案の束を差し出した。
「よし。これを教室で返してくれ」
答案を抱え、教室へ戻った。
後ろの扉まで来たとき、中から囃し立てる声が聞こえた。
「なあ朔、高峰さんって本当に南陵大を受けるの?」
「あそこ、一般選抜は難しいぞ。さすがに本気でやらないとな」
「平気だろ。篠宮がいるじゃん。学年トップにもっと教えてもらえばいい」
誰かが笑った。
「篠宮のノート、参考書より詳しいらしいぞ。何度か借りりゃ、南陵大も夢じゃないって」
朔は後ろの席で目を伏せ、指先で机を叩いていた。
こちらの気配に気づいたのか顔を上げ、私と目が合った。
笑いもしなかった。
話に加わりもしなかった。
けれど、否定もしなかった。
扉の前に立ったまま、何もかもが急にばかばかしく思えた。
第3話
教室へ入り、答案を配った。
朔の周りにいた生徒たちは、私を見るなり散っていった。
朔の答案を渡すとき、手の甲に新しい傷があることに気づいた。
以前なら、きっと「どうしたの」と尋ねていただろう。
休み時間に保健室へ行って消毒液とガーゼをもらい、何でもないふりをして机に置いたはずだ。
朔はたいてい使わず、散らかった教科書と一緒に机の中へ押し込んでいた。
けれど今度は、答案を差し出しただけだった。
「これ、黒瀬くんの」
朔が顔を上げた。
黒い瞳には、いつもの冷ややかさが宿っていた。
私は立ち止まらず、次の答案を配った。
昼休み、食堂の列に並んでいると、前にいた女子たちの会話が耳に入った。
「昨日、高峰さんと黒瀬くんが一緒に進路指導室へ行ってなかった?」
「行ってた。高峰さんは南陵大の学校推薦型選抜を受けるらしいよ。黒瀬くんも最近、南陵大の共通テスト得点率とか一般選抜の配点を調べてるんだって」
「本当?今の成績で届くの?」
「篠宮が教えてるからじゃない?」
笑い声が上がり、一人がさらに声を潜めた。
「篠宮って、黒瀬くんのこと好きなんじゃない?毎日のようにノート渡してるし」
「好きでもなきゃ、あんな面倒なことしないでしょ」
「でも、釣り合うかどうかくらい考えればいいのに」
「ほんと。身の程知らずだよね」
私はトレーを持ち、すぐ後ろに立っていた。
食堂は騒がしいはずなのに、その言葉だけは一つ残らず耳に届いた。
身の程知らず。
みんなには、私と朔がそう見えていたのだ。
列が進み、配膳の人に聞かれた。
「何にする?」
答えようとしたとき、視界の端に、食堂へ入ってくる二人が映った。
朔と玲花だった。
玲花は白いカーディガンを制服の上に羽織り、鞄と何冊かの資料を抱えていた。
何かを言うと、朔は彼女を見下ろした。
それから手を伸ばし、玲花の鞄を受け取った。
玲花は顔を上げ、朔に笑いかけた。
その瞬間、周囲の音が一斉に遠のいた。
さっき耳にした「朔と玲花はお似合い」という言葉だけが、やけに鮮明に残った。
返事がないので、配膳の人がもう一度尋ねた。
「決まった?」
我に返り、適当に二品を指した。
「これと、これをお願いします」
その夜、家に帰ると、鞄からノートを一冊ずつ取り出した。
数学、物理、英語、化学。
どれも余白がないほど書き込んであった。
赤ペンで印をつけた箇所もあれば、付箋を貼った箇所もあった。
付箋には私の注意書きと、朔がたまに返した言葉が残っていた。
【ここはよく出る。前の模試でも間違えてたから、もう一度見て】
朔の返事は「うん」
【三角関数の公式は覚えて】
返事は「分かった」
【英作文はこの構文を覚えておくと点が取りやすいよ】
そこには長い点線のあと、「細かい」とあった。
何百枚もの付箋を書いてきた。
返ってきたのは、こんな数文字だけだった。
それでも私は、3年間書き続けた。
付箋を一枚ずつ剥がした。
最後の一枚を剥がし終える頃には、机の上に小さな紙くずの山ができていた。
迷わず、全部ごみ箱へ捨てた。
……
それから数日、私は朔にノートを貸さなかった。
朔も理由を尋ねなかった。
いつもどおり始業ぎりぎりに来て、隣の生徒からプリントを借りた。
教師に当てられれば、やはり立ち上がって「分かりません」と答えた。
まるで、私のノートを借りていた日々など初めから存在しなかったようだった。
金曜日の放課後、玲花が突然、私たちの教室に姿を見せた。
誰かが笑いながら声を上げた。
「朔、高峰さんが来たぞ」
第4話
朔は机に突っ伏していたが、その声でようやく顔を上げた。
けれど玲花が最初に向かったのは、朔の席ではなかった。
まっすぐ私の机まで来た。
「篠宮さん、数学のノートを貸してもらえない?」
私は玲花を見上げた。
「朔が、篠宮さんのノートは一番分かりやすいって言ってた。最近、模試の成績もかなり上がったし。ありがとう」
ありがとう。
まるで朔に代わって礼を言うかのような、あまりにも自然な口ぶりだった。
私は教科書を閉じた。
「ごめん。今、手元にないの」
教室が一瞬、しんと静まり返った。
後ろから小声が聞こえた。
「貸すくらいいいのに。けちじゃない?」
「あのノート、前は黒瀬くんにしか貸してなかったらしいよ」
「必死すぎ」
そのとき、背後で椅子が床を擦る音がした。
朔が立ち上がった。
「通して。出るから」
隣の男子が慌てて道を空けた。
朔は誰も見ず、そのまま教室を出ていった。
玲花の視線が朔の後を追い、やがて私に戻った。
彼女は笑って言った。
「じゃあ、また今度お願いするね。それから、もう一つお礼を言いたかったの。南陵大のまとめ、すごく詳しくて助かった」
私の指が止まった。
「何のこと?」
玲花は目を瞬かせた。
「朔が持ってた、青いノートだよ。ここ数年の共通テスト得点率や二次試験の配点、学部ごとの特徴までまとめてあった」
頭の中が一瞬、真っ白になった。
青いノート。
3日間ほとんど眠らず、朔のために作ったものだった。
南陵大の直近5年分の倍率や合格最低点、学部ごとの科目配点、共通テストと個別試験で必要になる目標点まで整理した。
最後のページには、小さな笑顔の絵と一緒に、慎重な字でこう書いた。
【頑張って、黒瀬くん】
朔に見てもらえると思っていた。
けれど今、そのノートは玲花の手に渡っていた。
私は教科書を開き、もう誰の顔も見なかった。
「お礼なんていいよ。役に立ったなら、そのまま使って」
今度は玲花も笑わなかった。
しばらく私を見つめ、最後に「分かった」と言って立ち去った。
昼休み、校庭から教室へ戻ると、学級委員の長谷部湊(はせべ みなと)に呼び止められた。
湊はノートを返し、飲むヨーグルトを一本差し出した。
「さすが、黒瀬の成績まで上げたノートだな。微分のところ、説明が細かくて一発で分かった」
私はヨーグルトを押し返した。
「いらないよ」
湊はにやりと笑った。
「いいから。優等生へのお礼」
もう一度断ろうとしたときには、湊は自分の席へ戻っていた。
仕方なく、ヨーグルトを机の端に置いた。
座ろうとすると、背後から聞き慣れた声がした。
「そいつには、ノート貸したの?」
朔が教室の入口にもたれていた。
いつから立っていたのか分からない。視線は、私の手にあるノートに注がれていた。
淡い緑色の表紙は、右下が少し擦れていた。
以前は朔だけに貸していたノートだった。
私は答えなかった。
席に戻り、ノートを机の中へしまった。
その日、後ろの席はずっと静かだった。
放課後、私は掃除当番で教室に残った。
千紘は先に帰り、教室には私しかいなかった。
黒板を消し、床に落ちたチョークの欠片を拾った。
立ち上がったところで、背後から足音がした。
いつの間にか、朔が戻ってきていた。
後ろの扉のそばに立ち、制服の上着を肩にかけていた。前髪は風に少し乱れていた。
私は一度だけ見て、鞄を持ち上げた。
横を通り過ぎようとしたとき、朔が一歩ずれ、行く手を塞いだ。
「篠宮」
私は顔を上げた。
朔は少し間を置いてから、口を開いた。
「ここ数日、俺に怒ってる?」