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3年の背伸びはもう終わり、彼の世界には入らない
半年かけて内装を整えた新居は、そこで暮らすはずの私を、隅々まで拒んでいた。 身長160センチの私が洗面台の前に立つと、水はねが鎖骨にまで届く。ウォークインクローゼットのハンガーパイプは、精いっぱい跳び上がっても端に触れるのがやっとだ。 ところが、175センチある藤野玲奈(ふじの れな)がドアを開けて入ってくると、まるで自分の家に帰ってきたようだった。 玄関のいちばん上のフックにひょいとバッグを掛け、アイランドキッチンにゆったりともたれかかる。 「この高さ、やっぱりいいね。野菜を切るのも果物を洗うのも、腰が疲れない」 私の婚約者・相沢航平(あいざわ こうへい)はどこか得意そうに目を輝かせ、笑った。 「そりゃそうだよ。寸法は全部、玲奈に合わせて決めたんだから」 私の顔から血の気が引いたのを見て、航平はようやく申し訳程度の説明をした。 「あのときはデザイナーに急かされて、君は残業中だったし。それで、玲奈の寸法を使っただけだよ。ね、あとで踏み台をいくつか作ってあげるから」 貯金を使い果たして築いた、私の心安らげる場所。それが、別の女のための愛の巣になっていた。 私は苦く笑った。 それなら、この家には住まない。 この婚約者も、もういらない。
チャプター (1)
第1章
半年かけて内装を整えた新居は、そこで暮らすはずの私を、隅々まで拒んでいた。
身長160センチの私が洗面台の前に立つと、水はねが鎖骨にまで届く。ウォークインクローゼットのハンガーパイプは、精いっぱい跳び上がっても端に触れるのがやっとだ。
ところが、175センチある藤野玲奈(ふじの れな)がドアを開けて入ってくると、まるで自分の家に帰ってきたようだった。
玄関のいちばん上のフックにひょいとバッグを掛け、アイランドキッチンにゆったりともたれかかる。
「この高さ、やっぱりいいね。野菜を切るのも果物を洗うのも、腰が疲れない」
私の婚約者・相沢航平(あいざわ こうへい)はどこか得意そうに目を輝かせ、笑った。
「そりゃそうだよ。寸法は全部、玲奈に合わせて決めたんだから」
私の顔から血の気が引いたのを見て、航平はようやく申し訳程度の説明をした。
「あのときはデザイナーに急かされて、君は残業中だったし。それで、玲奈の寸法を使っただけだよ。ね、あとで踏み台をいくつか作ってあげるから」
貯金を使い果たして築いた、私の心安らげる場所。それが、別の女のための愛の巣になっていた。
私は苦く笑った。
それなら、この家には住まない。
この婚約者も、もういらない。
第1話
蛇口の水は、まだ出しっぱなしだった。
つま先立ちでレバーに手を伸ばすと、袖口がカウンターに触れ、冷たい水が手首を伝って袖の中へ入り込んできた。胸に残っていた最後の期待まで、洗い流すように。
航平は入り口に立ち、苛立った声を出した。
「たかが数センチ違うだけで、そんな顔することないだろ」
「15センチよ」
水を止めてかかとを下ろす。ふくらはぎは、だるさで震えていた。
「図面では洗面台は80センチだった。今は95センチ。クローゼットも吊り戸棚も、玄関のフックも、全部高くなってる」
航平が顔を上げた。
「そこまで測ったの?」
「私が住む家だから」
最初のプランは、十数晩も夜更かしして、少しずつ練り直したものだった。80センチにしたくてショールームを7か所も回り、タイルも間接照明も収納も、表にして1つずつ確かめた。
工事の終盤だけは、費用を捻出しようと残業続きになり、現場の確認を航平に任せていた。工事のグループチャットには一部分の写真しか送られてこない。赤ペンで丸をつけた寸法がすべて変えられていたと、今日初めて知った。
「これからは僕が取ってあげればいいだろ?」
あまりにも当たり前のように言うので、ふと3年前のことが浮かんだ。
当時住んでいた古いアパートも、カウンターが高すぎた。航平は工具を借り、一晩かけてキッチン収納の棚板を全部低くし、机の脚まで短く切ってくれた。
いつか2人の家ができたら、何もかも私に合わせる。背伸びして我慢させるようなことは、絶対にしない。そう言っていた。
なのに今、手を洗うにも服を掛けるにも踏み台を運ばなければならない家を、私に差し出している。そのうえで、ときどきは手伝ってあげると言う。
「航平、自分の家で物を取るたびに、人に頼むような暮らしは嫌なの」
「踏み台をいくつか作るだけだよ。そんなにお金もかからないだろ」
答えになっていなかった。
窓の外はもう日が落ちたのに、リビングのセンサーライトはつかない。私は部屋の中央へ進み、スマートスピーカーに話しかけた。
「リビングの照明をつけて」
「認識できませんでした。もう一度お話しください」
無機質な電子音が、暗闇に冷たく響く。
もう一度言っても、結果は同じだった。
玲奈が軽く咳払いをした。
「リビングの照明をつけて」
家中の間接照明が順にともり、カーテンまで左右にすっと開いた。夕暮れの光が差し込み、照明の真下に立つ玲奈は、この家の主として迎え入れられていた。
「玲奈、おかえりなさい」
機械の女性音声が流れた瞬間、部屋が静まり返った。航平を見ると、目をそらされた。
玲奈は潤んだ目をぱちぱちさせ、何も悪いことなどしていないという顔で私を見た。
「沙穂(さほ)、変に考えないでね。一昨日、航平に頼まれてシステムの調整を手伝ったの。登録を消し忘れただけだから……
航平、私の登録、早く消して。沙穂がまた不機嫌になっちゃう」
航平が私の手を取ろうとした。
「せっかくみんなが集まるんだし、こんなことで雰囲気を悪くしないで。沙穂の声紋は今夜登録するから」
私はその手を避けた。
「家具は作り直して。彼女の登録を消してから、私の声を登録して」
途端に、航平の眉間にしわが寄った。
「もういい加減にしてくれないか?オーダー家具は全部取り付け済みなんだ。撤去して作り直したら、少なくとも200万円以上かかる!」
「でも、最初に払った工事代の大半は私のお金よ」
「お金を出したのは沙穂でも、僕と玲奈は時間を使った。少し不便だからって、家中全部やり直すわけにはいかないだろ」
目の前にいる人が急に知らない人に見えた。真夏なのに、体の芯が冷えていく。
玄関の外で足音がして、新居を見に来た友人たちがお祝いのお酒を提げて入ってきた。
「広々としてて、いいデザインだね。玲奈が載せてた写真、すごく高級感があった」
「この高い吊り戸棚なんて、背の高い人によく似合うよね」
私の胸元がびしょ濡れなのに気づき、誰かが鼻で笑った。
「奥さん、蛇口に届かないなら無理しなくていいのに。明日、子ども用の踏み台を贈ってあげるよ!」
航平は私を脇へ引き寄せ、声を落とした。
「悪気はないんだよ。玲奈の顔をつぶさないで。何度も足を運んでくれたんだから」
気にかけるのは、いつも仲のいい女友達のことばかり。私のことは、何ひとつ考えてくれない。
「航平、この電動カーテン、どうやって開けるの?教えて!」
「今行く!」
航平は背を向け、そのまま行ってしまった。
玄関の棚に置いてあった鍵を手に取り、ためらっていたとき、あの声がまた流れた。
「玲奈、おかえりなさい」
私はドアを開け、別の誰かのために作られた家を後にした。
第2話
借りている部屋に戻ると、微熱が出た。
航平から電話が来たのは、翌朝になってからだった。出てみると自分でも驚くほど声がかすれていたのに、彼は気づかず、問い詰めるように言った。
「昨日は新居の確認もうまくいってたのに、どうして急に帰ったの?」
「服が濡れて、熱が出たの」
電話の向こうが一瞬静かになり、航平の声が和らいだ。
「声紋はもう登録してもらったよ。家具はいったんそのままにして、結婚してしばらく暮らしてから、不便なところを一緒に直そう」
初めて彼が譲ってくれたと言える言葉だった。
スマホの画面には、婚約の解消について調べていたページが開いている。けれど、それ以上指を動かすことはできなかった。
3年、一緒にいた。結婚式の招待状も出してしまった。私は、やり直す機会をもう一度だけ彼に与えることにした。
午後、解熱剤を飲んでドレスショップへ向かった。そこには玲奈もいた。
ロングワンピースを着てソファでカタログをめくっていた彼女は、私が入るとすぐに立ち上がった。
「沙穂、誤解しないでね。航平はドレスのことがわからないから、選ぶのを手伝ってって頼まれたの」
私は相手にせず、航平を見た。彼は近づいて私の額に触れ、眉をひそめる。
「こんなに熱いじゃないか」
慣れ親しんだ手のぬくもりに、泣きそうになった。
大学時代、40度の熱を出した私の枕元で、彼は一晩中付き添い、30分おきに冷たいタオルを替えてくれた。
けれど、次の瞬間にはもう手が離れた。
「熱があるのに出歩くから。試着が済んだら早く帰って。予定に支障が出ると困るし」
ちゃんと愛してくれたこともあった。ただ今は、私に向けるはずの気遣いも、辛抱強く向き合う気持ちもなくなっていた。
予約していたドレスを、スタッフが運んできた。長いトレーンに、びっしりと並ぶビジュー。
私が選んだシンプルなドレスではない。
私はスタッフに視線を向けた。
「最初に選んだものを試着したいんです」
スタッフは困った顔をした。
「先日、相沢様が藤野様といらして、ご注文を変更されたんです。こちらは藤野様がご試着なさったサンプルと同じ型で、サイズも藤野様に合わせて確定するよう承り、代金も全額頂戴しております。
元のデザインへ戻す場合は、あらためて製作の順番をお待ちいただくことになります」
玲奈が近づき、裾に指先を触れた。
「これ、着るとすごくきれいなの。このブランドのイベントで、同じシリーズを試したことがあるんだ。沙穂は小柄だから、少し丈を詰めれば着られるよ」
私は顔を上げて航平を見た。
「ドレスは自分で選んでいいって、約束したよね」
彼は目をそらし、面倒そうに言った。
「まずは着てみてよ。本当に合わなかったら、そのとき考えよう」
試着室でスタッフがウエストを絞ってくれたが、背中には大きな隙間が残った。1歩進むと、余った生地が足元にたまる。
スタッフは十数本のピンを持ってきた。
「かなりサイズが違いますね。無理に詰めるとウエストのラインが崩れてしまいます。相沢様からは、身長175センチのサイズでと伺っておりまして」
カーテンの向こうで、航平が言い訳した。
「玲奈がこれを気に入ったから、ひとまず彼女のサイズで取り置きしてもらったんだ。直せば着られるよ。そんなにわがままを言わないで」
鏡を見ると、ドレスの肩のラインは落ち、ウエストは1列のピンでかろうじて絞ってあった。まるで、他人のために作られたドレスを無理やり着せられているみたいだった。
私は勢いよくカーテンを開けた。
外では玲奈がジュエリーボックスから同じデザインのサンプルリングを取り、慣れた手つきで自分の薬指にはめていた。
「沙穂、石がしっかり留まってるか、見てあげるね」
ダイヤの指輪は彼女の指の付け根にぴたりと収まった。玲奈はそれを外し、笑顔で差し出した。
受け取って薬指にはめると、指輪はそのままするりと抜け落ち、重たいドレスの裾に落ちた。
拾わなかった。私は航平をまっすぐに見た。
「私の結婚指輪まで、彼女のサイズで用意したの?」
航平の表情が一瞬こわばった。
「デザインを選ぶのを手伝ってもらったら、お店が試着したときのサイズでサンプルを用意したんだ。本番用の指輪は、まだサイズを直せるよ」
あまりにも馬鹿げていた。
「ドレスも、指輪も、新居も。全部、少し直せば私に使わせられるってこと?」
「どうしてそういう受け取り方しかできないの?」
彼はかがんで指輪を拾った。声はすっかり冷えていた。
「ドレスを注文し直したら、あと2か月かかるんだよ。ホテルの予約は?招待した人たちはどうする?寸法がいくつか違うだけで、全部の予定をひっくり返すわけにはいかないだろ」
大きすぎるドレスの端を握りしめた。
「これは着ない」
航平は指輪を音を立てて箱に戻し、もう私を見なかった。
「青山沙穂(あおやま さほ)、いつからそんなに面倒くさくなったんだ?」
鏡には、背中に並ぶピンが映っていた。私のものではないドレスを、無理やりこの体に留めている。その列が、最後まで自分に言い聞かせていた言い訳を突き崩した。
私は試着室へ向かった。その背後で航平はさっさとスタッフに向き直り、お直し用の寸法を記録するよう頼んでいた。
私がまだこのドレスを着たいのか。
それさえ、聞こうともしなかった。
第3話
ドレスを脱ごうとしたとき、玲奈のヒールがトレーンをしっかり踏みつけていた。
私は前につんのめり、試着室の鏡の鋭い縁に肘をぶつけた。激痛が走るのとほぼ同時に、航平が手を伸ばした。
けれど、つかんだのは玲奈の腕だった。
「大丈夫か?」
玲奈は彼の腕に寄り添い、胸元を軽く叩いていた。
「沙穂がよろけるから、びっくりした」
航平は私に向き直り、眉を寄せた。
「着替えるときくらい落ち着いて。いちいちそんなに慌てるなよ」
私の肘はみるみる赤く腫れていた。
スタッフが氷の入った袋を持ってきた。航平はちらりと見て、受け取ろうとしたようだったが、そのとき玲奈が小さく息をのんだ。
ドレスのスパンコールで、玲奈の手の甲に薄い引っかき傷ができていた。航平はすぐに顔を伏せて、その手を確かめる。
私は自分で袋を受け取り、肘に当てた。
結局、ドレスは注文し直されなかった。航平は、とりあえず予定を押さえておくからと店にお直しを止めさせ、3日考えていいと言った。まるで、十分な選択の余地をくれたかのように。
店を出て、私は助手席のドアを開けた。
シートはずいぶん後ろに下がり、背もたれも半ば寝かされていた。腰を下ろすとつま先がフロアマットに届かず、ベルトが首に食い込む。
シートの調整ボタンを押すと、画面に確認が出た。
【玲奈専用の設定を上書きしますか?】
その文字を見つめていると、反対側から乗り込んだ航平が、画面を見て何気なく言った。
「上書きしないで。玲奈は脚が長いから、毎回戻すのは面倒なんだ」
私は画面の「専用」を指さした。自分でも驚くほど、静かな声だった。
「航平、結婚式で使うこの車まで、助手席は彼女専用なの?結婚する相手は私だって、まだ覚えてる?」
航平は冷たい目で私を見た。
「ただのシート設定だよ。気にしすぎだって。そんな小さなことにこだわって、何になる?」
言いすぎたと思ったのか、今度は身を寄せてベルトを緩めてくれた。
「2番に沙穂の設定を入れるから。乗るときに切り替えればいい」
近づいてくる彼を見ていた。
車を買ったばかりの頃には、おなじみだった姿。ミラーを合わせ、シートを少しずつ前に出してくれた。脚が短いなと笑いながら、助手席は私だけの場所だと言っていた。
あの頃の設定名は「沙穂ちゃん」だった。
今は、1番しか登録されていない。その名前は「玲奈」だった。
玲奈がドアの外で膝をさすった。
「私、後ろに座ろうか。ちょっと狭いけど、少しの間なら我慢できるから」
航平は体を起こした。
「こっちに乗って。脚が長いんだから、後ろじゃつりやすいだろ」
そして私を見た。
「沙穂、後ろに移って。すぐ着くから」
私は動かなかった。
「あなたの婚約者は、誰なの?」
ハンドルに置いた航平の手に力が入る。
「誰が助手席に座るかなんて、婚約者かどうかとは関係ないだろ。玲奈は具合が悪いんだから、少しくらい譲れよ」
玲奈はうつむいてドアに手を掛け、くぐもった声を出した。
「もういいよ、タクシーで帰る。私のせいで、2人がもめるのは嫌だから」
帰ると言いながら、その手はドアから離れない。
航平は車を降りると、彼女のために助手席のドアを開けた。
「もういいって」
それが、彼の選択だった。
私はベルトを外して車を降り、後部座席に回った。
望みどおり助手席に収まった玲奈に合わせて、シートが自動で後ろへ滑り、背もたれの角度が変わる。彼女のスマホが車のBluetoothにつながり、お気に入りの曲が流れ始めた。
私は後ろのシートにもたれた。袋の氷が少しずつ溶け、その水が手首を伝って滴り落ちた。
第4話
スマホの画面が光った。玲奈がSNSに新しい写真を載せていた。
助手席で脚を伸ばす彼女。添えられた言葉は、ひと言だけ。
【大事にされてると、シートまで体に合わせた位置を覚えてくれる】
航平がバックミラー越しに私を見た。
「今夜、一緒に食事しよう。お詫びに」
「どこで?」
彼はほっとしたように、すぐに店の名を挙げた。玲奈の好きな寿司店だった。
私はスマホをバッグに戻した。
「2人で行って」
車が道端に止まり、私はドアを開けて降りた。バッグを取ろうとかがんだとき、後部座席の隙間から紙切れが半分のぞいているのが見えた。
何気なく引き抜き、手の中に握り込んだ。ドアを閉めてから、ようやくそれが何か確かめた。
陶芸体験のカップルプランの半券。写真も添えられていた。
日付は先月の17日だった。
あの日、航平は現場の検査で夜11時まで忙しいと言い、私の誕生日の食事にも間に合わなかった。私は店で、1人きりで2時間待っていた。
ようやく現れた彼は埃まみれだった。大変だったのだろうと彼を気遣い、私は温めておいたうどんを出してあげたのに。
写真には、ろくろの前で肩を並べる航平と玲奈が写っていた。粘土のついた2人の手が重なり、1つのカップを支えている。
隅に記された時刻は、午後7時40分。
私の誕生日のろうそくが、半分まで燃えていた頃だった。
……
スマホが震え、航平からメッセージが届いた。
【席は取ってあるから。機嫌を直して、こっちでドレスと残りの支払いのことを決めよう】
しばらく見つめたあと、私は共通の親族や友人が入っているグループチャットを開いた。
話題は結婚式の引き出物だった。航平の母がオーダー品の見本をいくつか投稿し、私ではなく玲奈に呼びかけていた。
【玲奈ちゃん、どれがいいか見てくれる?あなたが好きなアロマも入れたのよ】
すぐに玲奈が返事をした。
【おばさん、2番目のピンクがかわいい。航平も、高級感があるって言ってました】
そのアロマに含まれるシダーウッドに、私が重いアレルギーを持っていること。ピンクが何より嫌いな色であること。誰ひとり、思い出しもしなかった。
グループには何も返さず、画面を切り替えて航平に送った。
【残りのお金は払いません。式は、いったん取りやめます】
すぐに電話がかかってきた。
「沙穂、今度は何なの?」
向こうからは、玲奈がスタッフを呼んで甘エビを追加する声が聞こえた。
私は半券と写真の画像を送った。
数秒、沈黙が続いた。航平の声が低くなる。
「建材の店のすぐ隣だったんだよ。見本が届くまで暇だったから、少し寄っただけ」
「私の誕生日なのに、暇だったの?」
「あとで戻って、一緒にいただろ?沙穂、もうやめよう。家具は替えるから。式を取りやめたら、両方の家が恥をかくんだよ」
ようやく、家具を替えると言ってくれた。
それでも彼が気にしているのは、私ではなかった。
「航平、これが最後。今すぐ玲奈のところを離れて、私に会いに来て。それで、お互いの親の前で全部説明して」
電話の向こうで、玲奈が小さく咳き込んだ。
航平はすぐに言った。
「玲奈は今夜、胃の調子が悪いんだ。ここに1人では置いていけない。話は明日にしよう」
私は目を閉じ、電話を切った。
そして、結婚式のキャンセルを正式に申し込んだ。