第1章
結婚式当日、私――水野初音(みずの はつね)は、朝の4時からヘアメイクさんを待っていた。
しかし、7時になっても、誰一人として現れなかった。
焦った私は、親友の清原美咲(きよはら みさき)に電話をかける。
すると、電話の向こうから笑い声が聞こえた。
「初音ちゃん、ほんと抜けてるよね。
昨日の夜、挙式の予定が急に変わったの。みんなもう会場に向かってるって」
私はウェディングドレスを抱え、急いで会場へ向かった。
汗だくになりながら到着した会場には、誰もいなかった。
その時、美咲から再び電話がかかってきた。彼女は笑いをこらえながら尋ねた。
「まさか、本当に会場まで行ったの?嘘でしょ、ただの冗談なのに!
今はリゾート婚が流行りでしょ? 式はとっくに白ヶ島に変更したの。みんな空港で待ってるわよ」
私は重たいドレスバッグを引きずりながら、第1ターミナルから第2ターミナルへと走り回った。
出発ロビーを何度も探しても、見知った顔なんて一つもない。
その時、美咲からビデオ通話が届いた。画面の中の美咲は、笑いすぎて肩を震わせていた。
「初音ちゃん、遅すぎ!もう先に出発しちゃった!
……なんてね。そもそも、リゾート婚なんて嘘だよ。私たちはただ白ヶ島に一週間遊びに行くだけ。式なんて、帰ってから後で挙げればいいじゃん」
画面が切り替わる。
そこには、私の婚約者である神谷湊(かみや みなと)が、美咲の荷物を持って歩いている姿が映っていた。
その二人のすぐ後ろには、父の水野修一(みずの しゅういち)と母の水野恵(みずの めぐみ)が立ち、家族写真を撮った時よりも楽しそうに笑っていた。
青ざめる私を見て、母は不快そうに眉をひそめた。
「ただの冗談だったのに。
やっぱり美咲ちゃんは気が利いて楽しいわね。初音は昔から真面目すぎるのよ。何でも深刻に考えすぎなの」
湊は美咲の肩に自分の上着をかけ、画面越しの私を見た。
「初音、先に帰って待ってて。
旅行が終わったら、ちゃんと戻って結婚してやるから」
画面に映るみんなの笑顔を見つめながら、私はもう、何かを言う気力さえ失っていた。
怒りも、悲しみもない。ただ、心の中が空っぽになっていく。
その場で、式場へキャンセルの連絡を入れた。
もう、この茶番に付き合うつもりはなかった。
第1話
電話が切れた、その直後だった。突然、空港内にアナウンスが流れた。
台風の影響により、全便欠航が決まったという。
見ると、ファストトラックから湊と美咲、それに両親が歩み出てくるところだった。
白ヶ島行きの便も欠航になったようだ。
私がウェディングドレスを抱えているのを見るなり、美咲はお腹を抱えて笑い出した。
「本当にウェディングドレス抱えて空港まで来たの?
初音ちゃん、相変わらずからかいがいがあるなぁ」
両親まで一緒になって笑っている。
朝4時から待ち続け、ドレスを抱えて式場と空港を走り回った。そんな私の姿も、この人たちには、ただの笑いの種でしかないらしい。
すると、美咲がふいに自分のお腹を撫で、意味ありげな顔で私に近づいてきた。
「実はね、どうしても結婚式を一週間延期しなきゃいけないのには、もう一つ理由があるの。
私、湊の子を妊娠したんだ」
さっと血の気が引き、頭の中でけたたましい耳鳴りが爆発する。
美咲は笑顔のまま続ける。
「もうすぐ3ヶ月になるよ」
私は反射的に湊を見る。
湊は否定もせず、ただ平然とその場に立っていた。
母はため息さえついた。
「もうこうなってしまった以上、美咲ちゃんを責めても仕方ないでしょ。
ましてや、子どもには何の罪もないんだから」
耳鳴りがする。
私はぎゅっと拳を握り締めた。指先の震えが止まらない。
「じゃあ、結婚式をドタキャンしたのは、二人を結婚させるためなの?」
一瞬、辺りが静まり返った。次の瞬間、美咲が吹き出した。
湊も呆れたように口元を緩める。
両親まで腹を抱えて笑い出した。
「まさかまた信じちゃったの?」
美咲は私の肩を叩きながら、涙が出るほど笑っている。
「私、彼氏すらいないんだよ!誰の子を妊娠するのよ?
初音ちゃん、今にも倒れそうな顔してる。面白すぎ」
湊は手を伸ばし、美咲の額を軽く小突いた。
「そういう冗談で、いつも初音をからかうなよ」
一瞬だけ、胸の奥に淡い期待が浮かんだ。けれど次の瞬間、湊は眉をひそめて私を見る。
「初音もだよ。
美咲が冗談好きなの知ってるだろ。なんで毎回本気にするんだ?」
母も面倒くさそうに手を振った。
「そんな顔して、どういうつもり?昔から冗談が通じないね。
みんな楽しくしてるのに、そんな顔されたら、まるでこっちが初音をいじめてるみたいじゃない」
そうか。
この人たちは、ちゃんと知っていたんだ。こんなことを言えば、私が傷つくことを。
知っているからこそ、わざと何も説明せず、私が慌てふためく姿を楽しんでいた。
この10年間、ずっとそうだった。
大学入試の日も、美咲は私に「試験会場が急に変更になった」と嘘をついた。
土砂降りの雨の中、騙されて遠くの会場まで走らされ、ようやく元の駅へ引き返した頃には完全にパニックだった。
見かねた駅員さんが改札から出口まで一緒に全力疾走して道案内してくれたおかげで、私は試験開始の1分前に滑り込めた。
試験が終わると、みんなが私を囲んで笑った。
母まで、こう言った。
「美咲ちゃんは初音の緊張をほぐそうとしただけでしょう?せっかくみんな楽しくしてるんだから、水を差さないで」
湊だって、美咲と口裏を合わせて私を騙したことがある。
二人がキスしているように見える写真をわざと撮り、私に送ってきたのだ。
泣きながら二人のところへ駆けつけると、彼らはとっくにスマホを構え、私の反応を撮るためにカメラを回していた。
そのたびに私は涙を拭い、無理やり笑顔を作った。怒っていないと証明するために。
いつしか、誰もが「面白い美咲」を持ち上げ、私のことを「根暗で、ノリが悪く、冗談の通じない女」と煙たがるようになった。
作り笑いさえ覚えれば、自分の居場所を失わずに済むのだと、そう信じていた。
でも、今日になってようやく分かった。
みんなの笑顔の裏で、私一人が踏み台にされていたのだ。
私は俯き、胸元をそっと押さえた。不思議と、もう痛くなかった。
失望しきってしまえば、人は涙すら出なくなるらしい。
ただ突然、何もかも、どうでもよくなるのだ。
第2話
空港の外で、突然大きな雷鳴が響いた。
次の瞬間、叩きつけるような雨が降り始めた。
湊が車を入口まで寄せると、両親が先に後部座席へ乗り込んだ。
美咲は自分のワンピースの裾を持ち上げ、慣れた様子で助手席に座る。
私も後部座席のドアに手をかけた。その時、美咲が口を開いた。
「待って」
美咲は降りて、私の腕からドレスバッグを奪うと、ウェディングドレスを後部座席の空いたところに広げた。
「パニエが潰れちゃったら、来週の式で着られなくなっちゃうじゃない?」
座席を占領するドレスを見つめ、私は呟いた。
「私が抱えて乗るから」
すると、美咲は少し困ったような顔で私を見つめ返してきた。
「でも初音ちゃん、汗だくじゃん。せっかくのドレス、汚れたら嫌でしょ?」
数秒の沈黙のあと、湊が淡々と言った。
「初音はタクシーで帰って」
私は思わず顔を上げた。
「この台風よ?タクシーなんて捕まるわけないでしょ」
湊は少し眉を寄せる。
「追加料金払って優先にすりゃ、そのうち捕まるだろ。
父さんと母さんは年寄りなんだから、こんなところで雨に打たせるわけにはいかない。美咲の靴は20万以上するんだぞ。靴底まで革なんだから。水に濡れたら一発でダメになる。
ドレスだって来週の式で着るんだから、トランクに無理やり押し込むわけにもいかない」
一気にまくし立てた湊は、それが一番理にかなっているとでも思っているようだった。
「初音なら体も丈夫だろ。少しくらい濡れたってどうってことない」
思わず自嘲の笑みが漏れた。
……そうか。
湊にとって私は、ドレスや靴よりも大切にしてもらえない。その程度の存在だった。
母が車の中から声をかけた。
「湊、もう行きましょう。
美咲ちゃんさっきから寒そうにしてるじゃない。風邪でも引いたら大変よ」
目の前で、ドアが閉まった。
湊は窓を少し開ける。
「家に着いたら連絡して」
それだけ言い残し、車は雨の中へ消えていった。
私は空港の入口に一人残された。
配車アプリの待ち時間は、いつの間にか10分から30分に延びていた。
画面には、容赦なくドライバーからのキャンセル通知が次々と並んだ。
気づけば、服も髪もすっかり濡れていた。
濡れそぼった髪が、冷たく頬に張り付く。吹き抜ける寒風に、歯の根が合わないほど体が震えた。
立ち尽くすこと一時間。ようやく、一台のタクシーが目の前に止まった。
私が乗り込むと、運転手さんはすぐに暖房を強め、前の座席からティッシュを差し出してくれた。
「よかったら、これ使ってください。
こんな台風の中、お一人でどうされたんですか?ご家族のお迎えは……?」
私は俯いたまま、答えなかった。
運転手さんはバックミラー越しに私を見ると、それ以上は聞かなかった。
ただ、静かな声で言った。
「どうか、気を落とさないでくださいね。台風も、いつまでも続くわけじゃありませんから。
風が収まれば、また晴れますよ」
私はスマホを取り出し、メールを開いた。そこには、2週間前に会社から届いた海外赴任の打診が残っていた。
あの時の私は、湊を置いていくことができなかった。長い時間をかけて準備してきた結婚式も、諦められなかった。だから、ずっと返事を先延ばしにしていた。
でも今、私は承諾の返信を送った。
そして、明日の午後に出発する片道航空券の予約画面を見つめながら、小さく頷いた。
「……ありがとう」
台風が過ぎれば、飛行機はまた飛び立つ。
遥か遠くへ――湊のいない人生へと旅立つのだ。
そして来週、湊の結婚式に、もう花嫁が現れることはない。
第3話
家に着いた頃には、熱で意識が朦朧としていた。
どれほど時間が経ったのだろう。湊が足早に部屋へ入ってきた。ソファの上で丸くなっている私を見るなり、その顔色が変わる。
「初音?」
額に手を当てた湊は、すぐに体温計を引っ張り出してきた。
39.2度。
「家に着いたら連絡しろって言っただろ。なんで無視したんだよ!
父さんたちと美咲を送ってから、わざわざ空港まで引き返して探し回ったんだぞ」
苛立ちを押し殺した声とは裏腹に、彼の手つきはすごく優しかった。
乾いたタオルで私の濡れ髪を拭い、ソファの傍らにしゃがみ込むと、靴擦れで血の滲んだ踵を消毒し始める。
消毒液が傷にしみ、私は思わず身をすくめる。
湊の手が、すぐに止まった。
「痛いなら言えよ。
今日はさすがにやりすぎた。
式のことはもうプランナーに連絡してある。来週、改めて準備してもらう。
ここ数日はゆっくり休め。あとは俺に任せておけばいい」
俯いて手当てをする湊を見つめているうちに、大学時代の記憶が蘇った。
あの頃にも一度、豪雨に打たれて高熱を出したことがある。
湊は私を背負って2キロ先の病院まで運び、そのまま一晩中そばについていてくれた。
翌日、美咲は笑いながらちゃかした。
「雨に濡れたくらいでこんな熱を出すなんて。初音ちゃん、湊君に構ってほしくてわざと弱々しいふりをしてんじゃないの?」
湊の表情は、たちまち険しくなった。
「39度も熱があるんだぞ。何が面白いんだ?
二度と初音の体調を冗談の種にするな」
そう言うと、湊は私の布団を掛け直し、まだ辛いかと小声で気遣ってくれた。
あの頃の湊は、美咲のたった一言のからかいからすら、私を守ろうとしてくれた。
それが今は、自分の手で私の苦しみを、みんなの笑い種へと差し出したのだ。
不意にスマホが震えた。
美咲が新しい動画を投稿した通知だった。
【結婚式当日に花嫁を3回連続で騙してみた結果、まさかの全乗り!】
冒頭に映っていたのは、迎えを待ちながら、一人きりで家に座っている私だった。
続いて、ウェディングドレスを抱えて誰もいない式場へ駆け込み、ドレスバッグを引きずりながら空港を走り回る姿が映し出される。
最後は、美咲が湊の子を妊娠したと告げた瞬間。血の気を失った私の顔が、アップになっていた。
……朝の5時から、彼らは物陰に撮影者を配置していたのだ。
焦りも、恐怖も、惨めに取り乱す姿も、すべて美咲が用意した動画の素材にされていた。
投稿から30分も経たないうちに、いいねは10万件を超えている。
コメント欄は、嘲笑で埋め尽くされていた。
【この花嫁チョロすぎて草。なんでも信じちゃうタイプかよ】
【冗談も通じないなら、ノリのいい友達なんか作らなきゃいいのに。最後の顔、死んだ人みたい引く】
【新郎と美咲ちゃんの方が絶対お似合い。二人ともノリいいし返しが完璧】
ほんの数分前、会社からも連絡が届いていた。
動画に私の本名と勤務先が映っていたため、取引先から担当者を替えてほしいと申し入れがあったという。
3年ものあいだ心血を注いできたプロジェクトは、それだけで凍結された。
私はスマホを湊の前に叩きつけた。
「今すぐ消させて!」
湊は険しい顔になり、すぐさま美咲に電話をかけた。
受話口から、美咲のすすり泣く声が聞こえてくる。
「初音ちゃんが叩かれるなんて、思わなかったの。
でも、この動画にはもう企業案件がついてる。今消したら違約金で800万も請求されちゃうし、アカウントもシャドウバン食らっちゃうよぉ……」
湊はスマホを握ったまま、なかなか口を開かなかった。
長い沈黙の末、ようやく言った。
「とりあえず消さなくていい。初音と話し合うから」
1日中押し殺してきた感情が、ついに弾けた。
「私の仕事が吹き飛んだのよ!これ以上何を話し合うっていうの?
結婚式も、家族も、湊も、全部美咲に譲った。私の仕事まで、美咲の踏み台にするつもり?」
けれど湊は、苛立たしげに私の言葉を遮った。
「仕事なんて、また探せばいいだろ!
いつも、みんなが美咲ばかりひいきするって責めるけど、どうして誰もが美咲を好きで、初音には近づこうとしないのか考えたことはあるか?
美咲は人に好かれる。それに比べてお前はいつだって冗談が通じなくて、些細なことで騒いで、周りの空気を悪くすることしかできないだろ!」
そう言い放つと、湊は動画の下に公開コメントを書き込んだ。
【初音は怒っていません。私たちは変わらず仲がいいので、美咲を責めないでください】
たったそれだけの言葉だった。
湊は美咲に向けられた批判を打ち消し、私の受けた全ての傷を勝手に「許した」。
私は手を伸ばし、湊のスマホを払い落とした。
「出ていって」
湊は信じられないものを見るように私を見つめ、その顔から少しずつ温度が消えていった。
「初音、こんなことで俺に出ていけっていうのか?」
彼は上着をひっつかみ、怒りに任せて玄関へ向かう。
それでも出ていく間際、解熱剤とぬるま湯を私の前に置いた。
「薬、ちゃんと飲んどけよ。明日になれば、きっとよくなるからな。今日のことはもう誰も気に留めないで、終わりにしよう」
重々しい音を立ててドアが閉まった。
湊は今でも、私の体を気遣うことだけは忘れない。
けれど、自分が踏みにじった私の尊厳を元に戻すのに、どれほどの時間がかかるのかは気にも留めない。
台風の夜に空港まで引き返して私を探す優しさはあっても。
私の苦しみでバズった動画を、美咲に消させる気はないのだ。
寝室のドアを閉めると、私はクローゼットの上段からスーツケースを下ろした。
パスポートなど必要な書類をその中へ入れる。
湊は言った。明日になれば、すべて終わりだ、と。
ええ、その通りよ。
湊も、7年続いたこの恋も、明日で終わりだ。
第4話
夜が明けたばかりの頃、突然、部屋のドアが蹴り開けられた。
飛び込んできた父に、いきなり頬を張られる。
続いて母が、私の目の前にスマホを叩きつけた。
画面に映っていたのは、美咲が手首を切る前に投稿した、最後の動画だった。
美咲は全身を震わせながら泣いていた。
「初音ちゃんが、私と湊のやり取りをネットに流したの。それで、私が泥棒猫って叩かせて……アカウントまで通報されて……
全部、私が悪いの。
初音ちゃんにあんな冗談なんて言うべきじゃなかった。許してもらおうなんて甘えてた私が悪いの」
そんなやり取りが何を指しているのか、私には見当もつかなかった。
けれど、美咲が涙ながらに訴えたことで、誰もが私の仕業だと決めつけていた。私が裏で美咲にネットリンチを仕掛け、追い詰めたのだと。
母が私を指差し、怒鳴りつける。
「初音、これで満足?
美咲ちゃんは昨日の夜リストカットして、今も病院で処置を受けてるのよ!」
美咲が残した遺書には、私への謝罪がびっしりと綴られていた。
ただみんなを笑わせたかっただけなのに、私の結婚式を台無しにしてしまった。許してもらえないのなら、命で償うしかない、と。
湊が乱暴に私の手首を掴む。その目に浮かんでいたのは、もう嫌悪だけだった。
「たかが一本の動画だろ。そこまでして消させたかったのかよ。美咲の仕事まで潰して……もし美咲が死んだら、お前、一生後悔するぞ」
まだ熱が下がっていなかった私は、何も説明できないまま、3人に連れられて病院へ向かった。
美咲はすでに意識を取り戻していた。
両親と湊が医師を呼びに病室を出ると、それまで目を閉じていた美咲が、ふいに目を開けた。そして私を見て、かすかに笑う。
「7年も湊のことが好きで、1年かけて結婚式の準備までしたのにね。
私が白ヶ島に行きたいって一言言っただけで、湊は花嫁のあんたを置いて、私についてきてくれた。
あんたのご両親だって、実の娘より私のほうが大事みたい」
私は怒りで全身が震えた。
「やっぱり、あのやり取りもネットの炎上も……全部、あんたの自作自演じゃないの!」
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
美咲の顔から、勝ち誇った笑みが一瞬で消えた。次の瞬間、いきなり私の手首を掴み、悲鳴を上げた。
「初音ちゃん、お願いだから点滴抜かないで!
ちゃんと謝ったじゃない! どうしてまだ許してくれないの?」
病室に飛び込んできた湊が、力任せに私を引き離した。
「初音、狂ったのかお前は!」
「違う、美咲が――」
説明しようとした瞬間、背中に強い衝撃が走った。父に突き飛ばされたのだ。
「出ていけ!これ以上、美咲ちゃんを刺激するな!」
よろめいた私は、そのまま床に倒れ込んだ。
激痛が一気に全身を駆け抜ける。
次いで、生温かいものが脚を伝って流れ落ちていくのを感じた。
そういえば、今月はまだ生理が来ていない。
結婚式の準備で忙しかったし、精神的にも疲れていた。ただ遅れているだけだと思っていた。
けれどその瞬間、恐ろしい可能性が頭をよぎった。
私は慌てて湊の袖を掴んだ。
「湊……お腹、すごく痛い。
今月、生理も来てなくて、もしかしたら、妊ーー」
言い終えるより早く、ベッドの上から美咲の弱々しい呻き声が響いた。
「湊」
湊はすぐに私の手を振りほどき、美咲のもとへ駆け寄った。
両親も一斉に美咲の周りを取り囲む。
私の声が聞こえていたはずの母すら、背を向けたまま冷たく言い放った。
「美咲ちゃんは目を覚ましたばかりなのに、こんな時まで張り合うのはやめなさい!」
3人とも、美咲を気遣うことしか頭にないようだった。
視界が少しずつ暗くなっていく。やがて私は、そのまま床の上で意識を失った。
再び目を覚ました時、医師から告げられた。
「妊娠6週目でした。
……残念ですが、赤ちゃんを守ることはできませんでした」
私は呆然と医師を見つめた。言われた意味が、なかなか頭に入ってこなかった。
医師が病室を出てから、ようやくゆっくりと手を伸ばし、まだ鈍い痛みの残る下腹部に触れた。
ここに、赤ちゃんがいた。
けれど私は、その子の存在に気づくことすらできなかった。
たったの一度も、守ってあげることもできなかった。
不意に溢れ出した涙が、頬を伝い、止まらなくなる。
私はベッドの上で体を丸め、震えながら泣き続けた。それでも、病室のドアを開ける人は誰もいなかった。
両親は美咲のそばにいる。
湊も、私の顔を見に現れることはなかった。
スマホに届いていたのは、30分ほど前に湊から送られてきたメッセージだけだった。
【美咲はもう目を覚ました。
落ち着いたら、ちゃんと謝りに来い】
私はその2行を、長い間じっと見つめていた。それから一人で退院の手続きを済ませ、新居に戻り、スーツケースを引く。
最後に、流産の診断書と結婚式のキャンセル確認書を、テーブルの上に並べて置いた。そして一度も振り返らず、空港へ向かった。
13時間後、飛行機は遠く離れた地へ降り立った。
一方その頃、湊はいつまで待っても私から返事が来ないことに、ようやく違和感を覚え始めていた。
最初は、また拗ねているだけだと思っていた。けれど十数回電話をかけても、一度も繋がらない。
胸の奥に生まれた小さな不安は、次第に焦りへと変わっていった。
急いで新居に戻ったが、中には誰もいなかった。
テーブルの上に、2枚の紙だけが残されている。
1枚は、結婚式のキャンセル確認書。
そしてもう1枚は、流産の診断書だった。
【妊娠6週。外部からの強い衝撃による流産】