死後、私の日記を読んだ夫は壊れた

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死後、私の日記を読んだ夫は壊れた

GoodNovel 完結

私・榊原希(さかきばら のぞみ)は、取り違えで榊原家の娘として育った榊原怜奈(さかきばら れな)に骨髄を提供するため、病院へ向かう途中で死んだ。 それでも夫は少しも悲しまず、すぐに怜奈との結婚を決めた。 15歳で本当の家族のもとへ戻った私を、黒川颯人(くろかわ はやと)は指さして罵った。 「この性悪女。お前のせいで、怜奈は家を失ったんだ」 20歳のとき、家同士の約束により、私は颯人と結婚した。 25歳になると、怜奈は白血病になり、私の骨髄が必要だと言い出した。 颯人は冷たく言い放った。 「お前は怜奈が受けるはずだった愛情を、これまで散々奪ってきた。少しくらい返して当然だろ」 両親も後ろめたそうに目をそらした。 「希、私たちのためだと思って、妹を助けてやってくれ」 私はバッグの中の妊婦健診の結果を握りしめ、何も言わなかった。 しかし病院へ向かう途中、大型トラックが正面から突っ込んできた。私は救急搬送されたものの、二度と目を覚まさなかった。 その後、私のブログに残された日記を読んだ颯人と両親は、正気を失うほど後悔することになる。

チャプター (1)

第1章

私・榊原希(さかきばら のぞみ)は、取り違えで榊原家の娘として育った榊原怜奈(さかきばら れな)に骨髄を提供するため、病院へ向かう途中で死んだ。 それでも夫は少しも悲しまず、すぐに怜奈との結婚を決めた。 15歳で本当の家族のもとへ戻った私を、黒川颯人(くろかわ はやと)は指さして罵った。 「この性悪女。お前のせいで、怜奈は家を失ったんだ」 20歳のとき、家同士の約束により、私は颯人と結婚した。 25歳になると、怜奈は白血病になり、私の骨髄が必要だと言い出した。 颯人は冷たく言い放った。 「お前は怜奈が受けるはずだった愛情を、これまで散々奪ってきた。少しくらい返して当然だろ」 両親も後ろめたそうに目をそらした。 「希、私たちのためだと思って、妹を助けてやってくれ」 私はバッグの中の妊婦健診の結果を握りしめ、何も言わなかった。 しかし病院へ向かう途中、大型トラックが正面から突っ込んできた。私は救急搬送されたものの、二度と目を覚まさなかった。 その後、私のブログに残された日記を読んだ颯人と両親は、正気を失うほど後悔することになる。 第1話 私は死んだ。 魂はつかみどころのない煙のようにふわふわと漂い、意思に反して颯人のそばから離れられなかった。 執着が深すぎたのかもしれない。肉体を失ってなお、10年愛し、同じだけ恨んだこの男から遠ざかることができなかった。 私の訃報を知らせる電話を受けても、颯人の顔には何の変化もなかった。 それどころか、すぐに押し隠されたごくわずかな嫌悪と安堵を、私は見逃さなかった。 「死んだなら、それでいい。葬儀社に任せて、そのまま火葬しろ」 颯人が電話の相手に冷たく命じる声には、何の感情もなかった。まるで、どうでもいいごみの処分について話しているかのようだった。 「遺骨?取りに行く暇なんかない。森下に処分させればいい」 もう心臓など残っていないはずなのに、それでも鋭い痛みが走った。魂そのものを引き裂かれたようだった。 5年も夫婦として暮らしていれば、どれだけ冷たい人でも、少しくらいは情が移ると思っていた。 だが颯人の心は、決して解けない氷よりも冷たかった。 次に私の死を知ったのは、実の両親である榊原隆之(さかきばら たかゆき)と佳代子(かよこ)だった。 二人は私の最期の姿を見に来ることもなく、怜奈を固く抱き締めて泣き崩れていた。 「怜奈……これから榊原家の娘は、あなただけよ」 佳代子は声を詰まらせた。 隆之は怜奈の背中を撫で、痛ましげに見つめていた。 私のために涙を流す者は、一人もいなかった。 二人にとって私の死は重荷からの解放であり、怜奈に対する「負い目」をようやく清算できる出来事だったらしい。 【私は、取り違えられた榊原家の実の娘。 15歳のとき、寂れた田舎から連れ戻された。 15年間、私の代わりに榊原家の娘として育った怜奈は、私が屋敷へ足を踏み入れた途端、泣きながら飛び出していった。私がすべてを奪ったのだと、声を枯らして訴えながら。 あのとき、怜奈の隣にいた颯人は、仇でも見るような目で私を射抜き、一言ずつ噛みしめるように言った。 「榊原希、お前みたいな性悪女のせいで、怜奈は家を失ったんだ」 けれど、本当は私のほうが、怜奈に15年分の恵まれた人生を奪われ、養父母に虐げられてきた。 どうして、誰もが私を責めるの?】 眠れない夜が来るたび、私はこの言葉を非公開のブログに書き込んでいた。 そこだけが、苦しみを打ち明けられる唯一の場所だった。 颯人の秘書である森下誠司(もりした せいじ)が、命じられて私の遺品を片づけに来た。 笑ってしまう。黒川家に嫁いで5年もたつというのに、私の持ち物はスーツケース二つにすべて収まった。 森下は、私が生前使っていたタブレットを颯人に差し出した。 「社長、こちらは奥様がずっとお使いになっていたものです。中に……日記が残っているようです。お目を通されたほうがよろしいかと」 その声には、私へのいたわりがにじんでいた。 颯人は眉間にしわを寄せてタブレットを受け取り、隠そうともしない苛立ちをあらわにした。 「また気を引くための芝居か?死んでまで面倒をかけるな」 一目もくれず、デスクの下にあるごみ箱へ放り込もうとした。 森下は何か言いかけたが、結局口を閉ざした。それでも捨てることはできなかったらしく、タブレットを拾い上げ、デスクの隅へそっと置いた。 そのとき、突然画面が明るくなった。 予約投稿に設定してあった太字の一文が、時間どおりに表示された。 【彼の子どもを授かった。うれしくてたまらない】 颯人の動きが止まった。 勢いよく振り向き、その一文を食い入るように見つめた。 宙を漂う私は、颯人の顔をよぎった驚きを見逃さなかった。 第2話 だが、その驚きはすぐに激しい怒りへ変わった。 「彼の子どもだと?」 颯人は歯を食いしばり、冷たく吐き捨てた。 「希、よくもやってくれたな。死んでまで、俺に恥をかかせるつもりか!」 ああ、なんてばかばかしいのだろう。 颯人は、私が不倫をしたと思い込んでいた。 無理もない。颯人の目に映る私は、恥知らずで、腹黒い女でしかなかったのだから。 あの「彼」が自分を指しているなど、考えもしなかったのだろう。 私と颯人の結婚は、家同士の利害を結ぶだけのものだった。そこに愛情はなかった。 それでも私は、5年も一緒にいれば、いつかは振り向いてくれる。怜奈のせいでこじれた誤解だって、いつかは解ける。 そんなふうに、馬鹿みたいに信じていた。 だが颯人は、私を見るだけでも目が汚れると言わんばかりに、心の底から嫌っていた。 数えるほどしかなかった夫婦の営みでも、颯人は目を閉じ、わざと怜奈の名を呼んだ。 その声を聞くたび、胸をえぐられるようだった。 そのたび、さらし者にされ、逃げ場もないまま傷つけられているようだった。 颯人は画面の文字をにらみつけていた。顔は怒りで青ざめ、目には炎が燃えているかのようだった。 本人さえ気づかない焦りが、激しい怒りと共に胸の内で渦巻いていた。私の書いた「彼」が誰なのか、突き止めずにはいられなかったのだ。 この女は、自分に隠れてほかにどれほど卑しい真似をしてきたのか、と。 颯人は汚れのついた画面を乱暴になぞり、ほとんど無意識に自分の誕生日を入力した。 画面のロックが解除された。 颯人は一瞬、呆然とした。 まだ私が榊原家へ戻ったばかりの頃、私はおずおずと颯人の誕生日を尋ねたことがあった。誕生日プレゼントを用意したいと伝えて。 颯人はうっとうしそうに私を一瞥し、適当に日にちを答えただけだった。私がそれを何年も大切に覚えているとは、思いもしなかったのだろう。 颯人の目に、一瞬だけ言葉にできない感情が浮かんだ。 何をしても離れない私に慣れきり、どこかで、私を思いどおりにできると思っていたのかもしれない。 だがそれも、すぐにより激しい怒りにのみ込まれた。 「ほかの男を作っても、まだ俺に未練があるのか。どこまで卑しい女なんだ」 低く吐き捨て、未公開の記事を開いた。 全文が画面に映し出された。 【結婚記念日に、このことを彼に伝えよう。きっと喜んでくれる。私たちにとって、何よりの記念日のプレゼントになるはず】 結婚記念日。 私の魂は、記憶の中をさまよった。 妊娠が分かった日は、ちょうど5回目の結婚記念日だった。 私は胸を躍らせながらキャンドルを灯し、颯人の好きな夕食を用意した。妊娠を伝えれば、少しでも驚きや、父親になる喜びを見せてくれるのではないかと期待していた。 だが待っていたのは、一度は帰宅したものの、すぐにまた出ていく颯人の後ろ姿だった。 怜奈から電話があり、独りでいるのに外では雷が鳴っていて、暗い部屋が怖いと言ったのだ。 颯人は私も、心を込めて作った料理も残し、そのまま朝まで帰らなかった。 あの夜、ろうそくは燃え尽き、私の心も冷え切った。 宙に浮かんだまま、複雑に歪む颯人の顔を見つめた。そこに復讐を遂げた喜びなどなく、果てしない悲しみだけが残っていた。 この人は、どこまで鈍いのだろう。どうして、ここまで私の気持ちを踏みにじれるのだろう。 そして私は、そんな男を愚かにも愛していた。 颯人は険しい表情のまま、ブログをさらに遡った。 やがて眉を強くひそめた。心を揺さぶられたような戸惑いが、その目に浮かんだ。 私が榊原家へ戻って間もない頃に書いた記事だった。 【彼は、私のことを忘れてしまったみたい。 昔、黒岩山で会った、全身傷だらけの男の子。私を一生守ると、確かに約束してくれた。 名前は黒川颯人だと言っていた。 なのに今は、どうしてあんなに冷たい目で私を見るの? 決して許せない敵を見るような目で】 黒岩山。 颯人の瞳孔が大きく見開かれた。 記憶の奥底へ無理やり封じ込めていた幼い日の恐怖と、その中に残る、かすかで温かな断片が一気によみがえった。 ぼんやりと浮かぶ少女の姿。澄んだ意志の強い瞳。自分も傷だらけなのに、小さく痩せた体で颯人を背負い、ふらつくことなく山を下りていった。 わずかな期待が胸に灯った。だが、それ以上に苦い思いがこみ上げた。 ようやく真実の一端に気づいてくれるのだろうか。 それが、ほんの小さな始まりにすぎなくても。 颯人の顔には疑念が広がり、何か大切なことを思い出しかけていた。息さえ荒くなった、そのときだった。 オフィスのドアがノックされた。 返事を待たずに扉が開いた。 怜奈がハンドドリップで淹れたコーヒーを手に、にこやかに入ってきた。甘えるような声を響かせた。 「颯人くん、お仕事お疲れさま。大好きなブルーマウンテンを淹れてきたの」 怜奈は軽やかな足取りでデスクに近づき、さりげない素振りで颯人の持つタブレットに目を向けた。 画面にある「黒岩山」の文字を見た瞬間、カップを持つ手がかすかに震えた。笑みも一瞬こわばったが、すぐに怯えたような表情を作り、小さく声を上げた。 「えっ……希お姉ちゃんのブログ、どうして……昔なくした私の日記と、まったく同じことが書いてあるの?」 怜奈は口元を手で覆った。大きな目には涙があふれ、ひどく傷ついたような顔をしていた。 「引っ越したときに、あの日記をなくしてしまったの。ずっと悲しかった。まさか……希お姉ちゃんが……」 怜奈は今にも泣きだしそうに颯人を見つめ、頃合いを見計らったように声を詰まらせた。 「きっと私の日記を拾って、そっくりそのままブログに書き写したのよ。 前にも脅されたの。黒岩山で颯人くんを助けたのはお姉ちゃんだと認めなければ、私が榊原家の本当の娘ではないと、みんなに言いふらすって……」 颯人は、「彼の子どもを授かった」という一文を目にした瞬間から、怒りを抑えきれずにいた。 しかも、黒岩山で命を救われたあの日の記憶は、彼にとって今も特別なものだった。 怜奈が事実を都合よくすり替え、涙ながらに訴えたことで、私に対して芽生えかけていた違和感も、まだ形にならない感情も、すべてかき消された。 残ったのは、私への嫌悪と、怜奈への同情だけだった。 颯人の目には、私は死んでもなお怜奈を陥れようとする、救いようのない女にしか映らなかった。 死んだあとまで、卑劣なやり方で怜奈を陥れようとしている――そう思っていた。 鋭い音が響いた。 颯人はタブレットを床へ叩きつけた。画面はたちまちひび割れ、耳障りな破砕音を立てた。 「どこまで腐った女なんだ!」 怒鳴る颯人の額には、青筋が浮かんでいた。 砕けた画面を見つめていると、胸が痛んだ。二度と元へ戻らないほど壊れた、私の心そのものを見ているようだった。 違うと叫びたかった。怜奈の偽善の仮面を剥ぎ取りたかった。 けれど、今の私は実体のない魂にすぎない。何もできず、颯人がまた騙される様子を見ているしかなかった。 怜奈の瞳に、得意げで意地の悪い光がひそかに浮かんだ。だが、すぐに悲しげで思いやりに満ちた表情を作った。 颯人のそばに歩み寄り、そっと手を握って優しくなだめた。 「颯人くん、もう怒らないで。そんな人のために腹を立てて、体を壊したら大変よ」 一度言葉を切ると、弱々しさと焦りをにじませた声で続けた。 「先生には、もう長くないかもしれないと言われたの。私の願いは一つだけ。颯人くんと結婚して、本当の花嫁になることよ。最後の願いを、かなえてくれる?」 青白く、か弱く見える怜奈の顔を見つめるうちに、颯人の怒りは次第に静まった。代わりに、憐れみと罪悪感が湧き上がった。 颯人は深く息を吸い、低い声で答えた。 「分かった。怜奈、結婚しよう」 そばで聞いていた私は、怒りで形のない体まで大きく揺らいだ。今にも姿を保てなくなりそうだった。 なんてばかばかしい。どこまで愚かなのだろう。 この男は、いつまで怜奈に騙され続けるつもりなのか。 第3話 それから数日後。颯人と怜奈が慌ただしく結婚式の準備を進めるなか、颯人の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。 電話の相手は中年の女性だった。声は感謝で震えていた。 「榊原希さんのご家族でしょうか。宮下琴音の母です。希さんには、いくら感謝してもしきれません。角膜を提供してくださったおかげで、娘はまた光を見ることができました。家族一同、どうお礼をすればいいのか分かりません。希さんは娘の恩人です」 私は思い出していた。 事故の日、現場へ真っ先に駆けつけたのは、意外にも養父母だった。 血だまりの中で息も絶え絶えになっている私を見ても、二人は動揺も悲しみもしなかった。あるのは、ぞっとするほど露骨な欲と打算だけだった。 養母は私の耳元に顔を寄せ、冷酷な声で吐き捨てた。 「希、あんたにも少しは使い道があったね。海外の資産家が、あんたの臓器に大金を出すと言っている。だから、ここで死んでもらうよ。私たちを恨まないで。怜奈の邪魔をするために榊原家へ戻った、あんたが悪いんだから」 あの事故は、養父母と怜奈が前から仕組んでいたものだった。 そもそも、私たちは偶然取り違えられたのではない。養父母は、自分たちの娘を裕福な家で育ててもらうため、わざと私と怜奈を入れ替えたのだ。 私を殺すだけでは飽き足らず、臓器まで金に換え、その金を、怜奈が裕福な家へ嫁ぐための資金にするつもりだった。 意識が薄れていくなかで、私はもう助からないと悟った。 完全に意識を失う前に、残る力を振り絞った。以前から携帯していた臓器提供意思表示カードに、血に濡れた指でどうにか署名した。 万一に備え、前もって用意していたものだった。 自分の死が誰かの明日につながるのなら、惨めだった人生にも、最後に一つだけ意味を残せる気がした。 もちろん、颯人は何も知らなかった。 火葬炉へ送られたとき、私の体には提供できる臓器も組織も、ほとんど残っていなかったことを。 私の最後の「価値」まで他人に利用されたのに、颯人は何一つ知らず、知ろうともしなかった。 電話を握ったまま、颯人はしばらく黙り込んだ。 受話口からは、感極まった女性の声が聞こえ続けていた。その言葉が、颯人の思い込みを少しずつ崩していく。 「角膜を……提供した?」 声はかすれ、目には戸惑いが浮かんでいた。 ――希が、そんなことを? 颯人にとって希は、身勝手で、性悪で、欲深く、榊原家へ戻るためなら手段を選ばない女だった。 そんな女が、見返りも求めず自分の臓器を提供するなど、信じられなかった。 電話を切った颯人の表情に、初めて怒りでも嫌悪でもない色が混じった。 困惑と、かすかな疑念だった。 すぐに森下に電話をかけた。声には、隠しきれない焦りがにじんでいた。 「希が最近何をしていたのか調べろ。特に、病院に関係することは全部だ。事故の前後の記録も、一つ残らず調べてくれ」 険しく寄った眉を見ながら、私は言葉にできない思いを抱えていた。 この愚かな男が、ようやくわずかでも真実を調べようとしていることを、喜べばいいのだろうか。 けれど、こみ上げたのは喜びよりも深い悲しみだった。 これほど時間がたっても、颯人の中の私は、怜奈の嘘で歪められた姿のままだった。 あの電話がなければ、颯人は永遠に私を思い出さなかったのだろうか。 私について、ほんの少しでも知ろうとはしなかったのだろうか。 私の死は颯人にとって、本当に厄介者から解放されただけの出来事だったらしい。 第4話 ほどなく、颯人と怜奈の結婚式の日が来た。 会場は華やかで、夢のように飾りつけられていた。純白のバラとシャンパンゴールドの布が、シャンデリアの光を受けてきらめいていた。 慌ただしく、寂しく、屈辱しか残らなかった私たちの式とは、比べものにならないほど盛大だった。 着飾った人々で埋まる華やかな会場を眺めても、胸は少しも動かなかった。 私と颯人の結婚式が脳裏に浮かんだ。 怜奈から、「お姉ちゃんに婚約者を奪われてつらい」と泣きつく電話が一本入っただけで、颯人は私を式場へ置き去りにした。 私はたった一人で、周囲のささやきや嘲笑、好奇の目にさらされた。 あの日の惨めさは、一生忘れられない。 もっとも、私はもう死んでいる。忘れられない一生そのものが、すでに終わっていた。 それでも消えない執着が、私をこの世につなぎ止めていた。 実の両親は満面の笑みで招待客を迎えていた。怜奈に向けるまなざしには、娘を嫁がせる喜びと誇らしさが満ちていた。 まるで、怜奈だけが二人のかけがえのない娘であるかのように。 颯人は遅れて姿を現した。 仕立てのよい黒のスーツに身を包み、相変わらず人目を引く容姿をしていた。だが眉間には苛立ちが残り、どこか疲れて見えた。 ここ数日、森下から私に関する調査結果が少しずつ報告されていた。 まだ核心には届いていない。だが断片が増えるほど、胸の内の不安は輪郭を帯びていった。 ウェディングマーチが流れた。 怜奈は隆之の腕を取り、幸せそうにはにかみながら、バージンロードの先にいる颯人に一歩ずつ近づいた。 高価なウェディングドレスをまとい、ベールの下の顔には入念な化粧が施されていた。誰が見ても、幸せの絶頂にいる花嫁だった。 誓いの言葉を交わし、指輪を交換しようとした、そのときだった。 颯人のポケットでスマホが鳴った。静まり返ったチャペルに、着信音が鋭く響いた。 森下からだった。 颯人は苛立たしげに眉を寄せ、そのまま切ろうとした。 だが、ここ数日の調査結果と、このタイミングでの電話が気にかかった。不吉な予感を振り払えない。 司式者に中断するよう合図し、電話に出た。 受話口から聞こえた森下の声には、抑えきれない焦りと驚き、それにわずかな恐怖が混じっていた。 「社長、すべて分かりました。奥様は間違いなく、社長のお子さんを妊娠していました。病院に健診記録が残っています。妊娠3か月になるところでした」 指輪を持つ手が止まった。 颯人の顔から、さっと血の気が引いた。 子ども。自分の子ども。 だが、森下の報告はそれだけでは終わらなかった。 「それから……怜奈さんの白血病に関する診療記録は、偽造されたものでした。奥様の事故は、故意に起こされたものでした。運転手が供述しています。計画したのは……奥様の養父母と、怜奈さんです」 小さな音を立て、颯人の手から指輪が落ちた。 硬い床にぶつかり、澄んだ音を響かせた。

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