第1章
霞野市の空には黒い雲が幾重にも立ち込め、やがて前触れもなく激しい雨が降り出した。
清野紗月(せいの さつき)はバスの座席に座り、窓ガラスを伝って流れ落ちていく雨粒をぼんやりと眺めていた。
先ほど医師から告げられた言葉が、いつまでも頭から離れなかった。
脳腫瘍の末期。余命は、長くてもあと3か月――
紗月はいつもの番号を呼び出し、電話をかけた。
しばらくすると、受話口からよく通る低い声が聞こえてきた。耳に心地よい響きとは裏腹に、その口調はひどく冷ややかだった。「何か用か?」
紗月は診断書を握りしめ、無理やり口元に笑みを浮かべた。「ううん。ただ、今日は帰ってきて、少し一緒にいてくれないかなって思って」
「何度も言っただろ。用もないのに電話してくるな」
電話越しに、清野征士郎(せいの せいしろう)の苛立った声が聞こえてくる。
その背後からは、女の甘ったるい声に混じって微かな吐息まで聞こえ、紗月の胸は不意に締めつけられた。
スマホを握る指先が白くなるほど力を込めながら、彼女は呆然としたまま答えた。「ごめん。邪魔しちゃったね」
その直後、電話は一方的に切られ、耳元には無機質な切断音だけが残った。
それでも紗月は、なかなかスマホを耳から離すことができなかった。
窓ガラスに映る自分の顔には、いつの間にか幾筋もの涙が流れていた。
征士郎が自分を愛していないことなど、紗月はとうに分かっていた。
彼の周りから女の影が絶えたことなど、一度もない。それもすべて、嫌というほど分かっていた。
ただ、真実を突きつける勇気がなかっただけだ。
自分が臆病なのは認めている。
すべてを暴いてしまえば、自分に残されたわずか3か月の結婚生活さえ、守れなくなってしまうのが怖かった。
第1話
月影邸。
紗月は6時になる前から食卓いっぱいに料理を用意し、それからはごく普通の夫婦のように、静かに夫の帰りを待っていた。
征士郎は潔癖症で、他人が家に出入りすることを嫌っていたため、使用人を雇っていなかった。そのため、家のことは大小を問わず、すべて紗月が自分でこなしていた。
屋敷に置かれたヨーロッパ風の置き時計が時を刻むなか、時間だけが静かに過ぎていった。
やがてテーブルに並べた料理はすっかり冷めきり、それにつれて紗月の心まで冷えていった。
彼女はソファに横たわり、半分眠りかけたような状態で、うとうとしていた。
ここ数日、体にはまるで力が入らず、ひどく眠気を感じるようになっていた。それなのに眠りは浅く、眠るたびに、さまざまな奇妙な夢を見るようになっていた。
突然、体にずしりと重みがかかった。
胸元を押さえつけられた紗月は、驚いて勢いよく目を覚ました。一瞬、目の前が真っ暗になったものの、ほどなくして視界は元に戻った。
すぐ目の前には、男の冷ややかで端正な顔があった。その整った顔立ちの一つひとつを、はっきりと目でなぞれるほどの近さだった。
その顔を見つめながら、紗月はふと気づいた。かつて優しく穏やかだったあの青年は、いつの間にか落ち着きをまとった大人の男へと変わっていたのだ。
鼻の奥がつんとし、紗月は青ざめた唇をわずかに開いた。「あなた……」
男の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。征士郎は大きな手で彼女の頬を乱暴につかむと、そのまま熱く荒々しい口づけを押しつけた。
「んっ……」彼の口から漂う強烈な酒の匂いに、紗月は激しい吐き気を覚えた。
目尻に涙を滲ませながらも、彼を押しのける勇気はなかった。
胸の奥には、無数の針で刺されているような痛みが広がり、彼女は掠れた声を絞り出した。「やめて……」
他の女に触れたあとで、自分に触れられるのが嫌だった。
「やめて、だと?」
征士郎は容赦なく大きな手を紗月の服の中へ滑り込ませた。
全身から濃い酒の匂いを漂わせながら、冷たく言い放つ。「昔、恥も知らずに俺のベッドに潜り込んできたときは、どうして『やめて』と言わなかった?」
その言葉を聞いた途端、紗月は抵抗するのをやめた。
澄んでいた瞳から光が消え、まるで淀んだ水のように何の感情も映さなくなった。
征士郎は、自分の下で死んだ魚のように微動だにしなくなった女を見ると、一気に興が冷めた。彼女を乱暴に突き放し、そのまま浴室へ向かった。
紗月は冷たい床へ投げ出された。浴室から響いてくるシャワーの音を聞きながら、目尻から涙がゆっくりと伝い落ちていった。
征士郎を好きになったのは、まだ恋というものを知り始めたばかりの頃だった。数えてみれば、あれからもう10年になる。当時まだ幼かった少女も、今ではすっかり大人になった。
けれど今の彼は、もうあの頃の優しく穏やかな「征士郎さん」ではなかった。
4年前、本来なら征士郎と結婚するはずだったのは、紗月の従妹である白河琴葉(しらかわ ことは)だった。
ところが紗月は何者かに嵌められ、征士郎のベッドに送り込まれてしまった。
琴葉は腹を立てて彼のもとを去り、再び戻ってきたときには、すでに別の男と結婚していた。
紗月は覚えていた。前に征士郎が自分に乱暴を働いたのは、琴葉が結婚したと知ったときだった。では、今回はいったい何があったのだろう。
やがて浴室から聞こえていたシャワーの音がぴたりと止んだ。
紗月は服を整えてソファに座り、いつものように彼のために白湯を用意した。
バスローブをまとった征士郎が浴室から出てきた。その暗い瞳はテーブルに置かれた白湯へ向けられ、やがて紗月の顔へと移った。
そして、低く重い声で告げた。「彼女が離婚した」
第2話
紗月は胸を突かれたような衝撃を受け、膝の上に置いていた手をゆっくりと握りしめた。
琴葉が離婚した――?
「どうすればいいか、分かっているだろう」
征士郎は服を着替えて身なりを整えると、彼女の前までやって来て、冷淡な声で言った。
紗月はゆっくりと顔を上げ、彼をじっと見つめた。その瞳に浮かぶ悲しみは、どうしても隠しきれない。「私と……離婚したいの?」
悲痛に満ちたその眼差しが、まるで針のように征士郎の胸へ何度も突き刺さった。
胸の奥に重苦しさを覚えながらも、彼の冷ややかな顔に浮かんだのは苛立ちだった。「俺は琴葉に償わなければならない」
紗月の澄んだ瞳から、すべての光が消えた。
強く握りしめた手のひらには爪が食い込み、ゆっくりと血が滲んでいった。「じゃあ……私は?」
私には、何も償うことはないの?
「離婚するなら、十分な財産分与はする。それ以上のことは望まないほうがいい」
征士郎は冷たく言い捨て、背を向けて立ち去ろうとした。
しかし紗月は、とっさに彼の袖をつかんだ。
「離婚してもいい。その代わり、一つだけお願いを聞いてほしいの。
3か月だけ、私のために芝居をして。私を愛している夫を演じてほしいの。普通の夫婦みたいに手をつないで、抱きしめて……私を愛して」
最後の「愛して」という言葉はあまりにも小さく、ほとんど聞き取れないほどだった。
それでも征士郎の耳には、一言も漏らさず届いていた。途端に胸の奥から激しい嫌悪感が込み上げてきた。
「お前は本当に救いようがないな!
結婚するときにも言ったはずだ。俺は一生、お前を愛することなんてない」
――「俺は一生、お前を愛することなんてない」
征士郎が去ったあと、紗月の胃が激しくせり上がった。体の苦痛と、胸を引き裂かれるような痛みが一気に押し寄せ、彼女は広いリビングで、その場に泣き崩れた。
赤や緑の錠剤をいくつもまとめて飲み込んだ。頭はひどくぼんやりとし、涙で目の前の景色さえ滲んで見えなくなっていった。
……
紗月は雨の日が嫌いだった。
それなのに霞野という街では、ひとたび雨が降り始めると半月近く降り続くことも珍しくない。
オフィスには近藤朔弥(こんどう さくや)がキーボードを叩く音だけが響いていた。
やがてその手が止まり、彼は真剣な表情で尋ねた。「本当に雨宮グループを清野征士郎に任せるつもりなのか?」
紗月は青ざめた顔で答えた。「雨宮グループを任せるなら、彼が一番ふさわしいから」
日に日に痩せ細っていく彼女の体を見つめ、朔弥は表情を曇らせた。「だが、あいつは君にはふさわしくない」
紗月の胸がかすかに震えた。苦い思いが胸の奥いっぱいに広がっていく。
それでも込み上げる悲しみを必死に押し殺した。「……続きをお願い」
朔弥はノートパソコンを閉じた。「遺言書の続きはまた今度だ。病院へ行くぞ。俺も付き添う」
「私は大丈夫だから」
「紗月。二度は言わない」
有無を言わせぬ口調で告げられ、紗月もそれ以上は断れなかった。
朔弥はかなり以前から紗月の実家が経営する雨宮グループの顧問弁護士を務めていた。
雨宮グループが衰退していくなかでも離れることなく支え続けてくれた彼は、紗月にとって兄のような存在だった。
……
市立病院。
検査を終えると、医師は紗月に、病状が進行すれば視覚や聴覚に障害が現れ、さらには中枢神経にも影響が及ぶ可能性があると説明した。最悪の場合、急激に頭蓋内圧が上昇し、突然死する危険さえあるという。
手術のリスクも極めて高く、手術中に命を落とす危険さえある。
朔弥は彼女を安心させるように言った。「心配するな。世界でも指折りの脳腫瘍専門医を探す。必ず治してみせるから」
紗月は力なく頷いた。
生きることへの希望は、もうほとんど抱いていなかった。
ただ、両親には申し訳ないという思いだけが残っている。あの頃、征士郎と結婚すると頑なに言い張ったせいで、両親の最期にさえ立ち会うことができなかった。
そして今、自分の命も残りわずかだというのに、愛した男は、たった3か月だけ自分を愛するふりをすることさえ拒んだ。
二人が病院を出ようとしたそのとき、入口に見覚えのある人影が現れた。
紗月は息を呑んだ。
征士郎が、弱りきった様子の女を腕に抱き、焦燥を露わにしながら病院へ駆け込んできたのだ。
彼も紗月に気づいた。
だが、その視線が彼女に留まったのはほんの一瞬だけで、そのまま何も言わずにすれ違っていった。
「白石蓮司(しらいし れんじ)先生を呼べ。彼女に何かあったら、この病院をただでは済まさないからな!」
背後から響いてきた男の怒声に、紗月の体がかすかに震えた。
白石蓮司――霞野市で最も腕がいいと評判の婦人科医だ。
自分はこれほどの重病を患っているというのに、夫は別の女を腕に抱き、血相を変えて婦人科医を呼んでいるなんて。
第3話
その夜、紗月は広いベッドに横たわっていた。
頭の奥では、鈍い痛みがずっと続いていた。
やがて長身の男が部屋へ入ってくると、布団をめくり、彼女の体を乱暴に押さえつけた。
「近藤のやつと病院で何をしていた?」征士郎の声には、詰問するような響きがあった。
大きな手が乱暴に体を這い回り、紗月はかすかに身を震わせると、不快そうにその手をどけた。
征士郎は眉をひそめ、次の瞬間には体勢を変えて彼女の手首を押さえつけ、冷ややかに見下ろした。「ずいぶん偉くなったな。俺を拒むつもりか?」
紗月は目の前がぼやけていくのを感じた。手首に走る痛みに耐えながら、低い声で訴えた。「あなた……私、具合が悪いの」
しばらくして、ようやく視界がはっきりしてきた。
紗月の胸に恐怖が込み上げた。
――もうすぐ、目まで見えなくなってしまうのだろうか。
しかし征士郎は、焦点の定まらない彼女の眼差しを見ても、それを誘っているのだとしか思わなかった。目に嘲りを浮かべ、冷たく言う。「どこが具合悪いんだ? 近藤じゃ満足できなかったのか?」
「違う……んっ……」
紗月が説明する暇もなく、征士郎は彼女に容赦ない仕打ちを加えた。
すべてが終わったあと、紗月は口の中いっぱいに鉄のような味が広がるのを感じた。ベッドにうつ伏せになり、口元から滲んだ鮮血を枕に隠した。
征士郎は彼女から離れて立ち上がった。きちんと身につけていた服は、ほとんど乱れてすらいなかった。
ベッドの上で力なく横たわる女を冷たく見下ろすと、ひどく興ざめした様子で言い放った。「覚えておけ。どこの馬の骨とも分からない男と付き合うな」
紗月は力なくベッドに横たわったまま、今日、征士郎が琴葉を心配していた姿を思い出し、胸の奥に鋭い痛みを覚えた。
自分は人生で一番輝いていた時期のすべてを彼に捧げ、これまで一度たりとも、他の男性と一線を越えたことなどない。
それなのに征士郎は女遊びを繰り返し、そばには数え切れないほどの女がいた。
それでも最後に不倫を疑われるのは、自分なのだ。
……
翌朝。普段は誰も訪れることのない広いリビングに、初めて客がやって来た。
「お姉ちゃん。征士郎さんと離婚してくれるなら、あのときのことはもう責めないでいてあげる」ソファに座る琴葉は、今も変わらず美しいままだった。
一方の紗月は顔色が青白く、かつての華やかな美貌もすっかり影を潜めていた。
彼女は琴葉を淡々と見つめた。「あのとき、私のお酒に薬を入れたのはあなたでしょう?最初から征士郎と結婚するつもりなんてなかったのね」
琴葉の一見無邪気な瞳の奥には、打算に満ちた思惑が隠されていた。
「昔のことなんて、もう終わったことでしょ。それに今、征士郎さんの心にいるのは私だけよ。
昨日だって見たでしょう?私がちょっとお腹を痛めただけで、病院をただでは済まさないほど慌てていたんだから」
やっぱり――!
琴葉は否定しなかった。
4年前から、紗月にも薄々その疑いはあった。ただ、どうしても信じることができなかったのだ。
けれど今、ようやくすべてが分かった。
当時の清野家には、まだ今ほどの勢いも財力もなかった。琴葉は征士郎と結婚したくなかったため、紗月の酒に薬を盛り、征士郎に裏切られたという筋書きを自ら作り上げたのだ。
そしてその後、深く傷ついた被害者を装い、大手上場企業を傘下に持つ榊原家の長男、榊原雅臣(さかきばら まさおみ)と結婚した。
「だから何?私が征士郎の妻でいる限り、あなたは永遠に愛人でしかないわ」事情をすべて理解した紗月は、もう琴葉に遠慮するつもりなどなかった。
その言葉を聞いた琴葉の表情が一瞬強張ったものの、すぐに笑みを浮かべる。
「征士郎さんのことなら、私よりお姉ちゃんのほうがよく分かってるでしょう?あの人は愛する女に辛い思いなんて絶対にさせないわ。
お姉ちゃんは後悔しないといいけど」
紗月は平静を装ったまま琴葉を見送った。しかし、彼女が残した言葉を思い返した途端、体から力が抜け、今にも倒れそうになった。
そして間もなく、琴葉の言葉は現実となった。
琴葉は帰宅途中に交通事故に遭い、しかも彼女をはねたのは雨宮グループの社用車だった。
その日の深夜、征士郎に病院へ呼び出された紗月は、そこで初めて事情を知った。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……私、お姉ちゃんを怒らせるようなことを言うべきじゃなかった」病床に横たわる琴葉が、弱々しい声で謝った。
征士郎は鋭い目で紗月を見つめた。「なぜ人を使って琴葉をはねさせた?」
「私がやっていないと言ったら、信じてくれる?」
紗月は彼の冷え切った瞳を見つめ、自嘲するように笑った。
――信じてくれるはずがない。
征士郎は顔を険しくすると、紗月をつかんで病室の外へ引っ張り出した。「やっておいて、認める度胸もないのか!」
そのとき、少し離れた廊下から、年齢を感じさせる力強い声が響いてきた。
「そこまでだ。この件は紗月とは関係ない」
第4話
紗月が声のしたほうへ目を向けると、廊下にはこめかみに白髪の混じった老人が立っており、その慈愛に満ちた眼差しを彼女へ向けていた。
紗月は鼻の奥がつんと痛み、青ざめた唇をわずかに開いた。「おじいさま……」
「辛い思いをさせたな」
清野宗一郎(せいの そういちろう)は心から労わるような口調で言った。
紗月は喉が塞がったような感覚に襲われ、何も言えなかった。
かつて雨宮家のお嬢様として何不自由なく暮らしていた頃の彼女は、涙を流すことさえほとんどなく、「辛い」とか「悔しい」といった思いとは無縁だった。
それなのに今は、自ら愛する人を選んだ末に、あらゆる苦しみを味わい、数え切れないほど傷ついてきた。そしていつしか、傷つくことさえ当たり前になってしまっていた。
その後、宗一郎は征士郎をひとしきり叱りつけた。離婚した女に惑わされ、自分を一途に愛し、何の見返りも求めずについてきた妻を責めるなど言語道断だ、と。
さらに宗一郎は、今回の事故について徹底的に調べさせた。
その結果、事故は最初から最後まで琴葉が仕組んだ自作自演だったことが判明した。彼女はわざと雨宮グループの社用車を利用して事故を起こし、すべての罪を紗月になすりつけようとしていたのだ。
真相を知っても、征士郎は何も言わなかった。
紗月は征士郎という男をよく知っている。
琴葉が事故を仕組んだことを事前に知らなかったとしても、真相を知った今でさえ、彼は何も言わず琴葉を庇うことを選んだ。
琴葉の言ったことは正しかった。
征士郎は、本当に愛している女には決して辛い思いをさせない。
紗月の胸に、言いようのない苦さが広がった。
……
それから1週間、征士郎は一度も家へ帰ってこなかった。
紗月は病院で抗がん剤治療を受けていた。朔弥はずっとそばに付き添い、彼女の美しい髪が切り落とされ、床へ落ちていくのを見つめながら、その瞳に悲しげな色を浮かべていた。
「私……すごく不細工になった?」
枕にもたれた紗月が尋ねると、朔弥は優しく答えた。「君は誰よりもきれいだよ」
その優しい言葉に、紗月の瞳に一瞬だけ光が宿ったものの、すぐに消えてしまった。「朔弥さん、ウィッグを買ってきてもらってもいい?できれば、前の私の髪と同じようなものがいいな」
今の変わり果てた姿を、征士郎には見られたくなかった。
「分かった」
朔弥には彼女が何を考えているのか分かっていた。それだけに、断ることなどできなかった。
午後になると、紗月は買ってきてもらったウィッグをかぶり、薄く化粧を施して青白い顔色を隠した。これなら、一見しただけでは抗がん剤治療を受けたばかりだとはほとんど分からなかった。
朔弥は車で紗月を自宅まで送り届けると、自分の首に巻いていたマフラーを外し、彼女の首元にそっと巻いてやった。「寒くなってきたから、体には気をつけろよ」
「うん」
紗月は朔弥の車が見えなくなるまで待ってから、ようやく屋敷へ入った。
広いリビングには冷え切った空気が漂っていた。中へ足を踏み入れた瞬間、ソファに座る男の姿が目に入った。
これほど長い間帰ってこなかったから、もう二度とここには戻ってこないのだと思っていた。
「遊び歩いて、ようやく気が済んだか?」
征士郎の口から吐き出された冷たく侮辱的な言葉に、紗月はまるで頭から冷水を浴びせられたような気分になった。胸に灯ったばかりの小さな光が、一瞬にして消えていった。
紗月が何も言わないのを見て、征士郎の苛立ちはますます募った。
数歩で彼女との距離を詰めると、いとも簡単に壁に押さえつけ、耳元で低く言い放つ。「俺が数日帰らなかっただけで、もうあの弁護士とできたのか?お前はそこまで男に飢えてるのか?」
その言葉を聞くたびに、紗月の心はさらに冷えていった。奥歯を強く噛みしめ、声を絞り出した。「私と朔弥さんは、何もないわ」
それを聞いた征士郎は、両手を乱暴に彼女の服の中に差し入れた。
紗月の体がびくりと震えた。
医師から言われたことを思い出し、慌てて彼の手をつかんだ。「お願い……やめて」
抗がん剤治療を受けたあとの体に、大きな負担をかけてはならないと医師から強く言われていた。今の紗月にとって征士郎に無理を強いられることは、命を削られるのと変わらない。
「何だ?近藤に嫌われるのが怖いのか?」
征士郎の瞳には、激しい怒りが燃えていた。その視線が紗月の首に巻かれた男物のマフラーに落ちた瞬間、胸の奥からさらに凄まじい怒りが込み上げてきた。
次の瞬間、紗月はそのまま浴室へ引きずり込まれ、尊厳を踏みにじられる仕打ちを繰り返し受けた。
彼女は鏡に映る無残な自分の姿を見つめた。
そこに映っているのは、尊厳をすべて奪われた、惨めな自分だった。
その瞬間、頭の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
喉の奥から突然、熱いものが込み上げてきた。
紗月の瞳から徐々に光が失われていき、次の瞬間にはごふっと血を吐いた。
大量の鮮血が鏡一面に飛び散り、鮮やかな赤がまだらに広がっていった。
第5話
鮮やかな赤が目に飛び込んだ瞬間、征士郎は強い衝撃を受けた。
彼は紗月を抱き上げ、瞳に一瞬、動揺の色を浮かべた。「どうした?」
その一瞬の変化を見た紗月は、心の奥深くに凍りついていた氷がわずかに溶けていったのを感じた。無理に笑みを浮かべた。「これ、わざと用意しておいた血糊なの……あなたも私のこと、心配してくれるんでしょう?」
紗月が何事もなかったように口元を拭うのを見て、騙されたと知った征士郎の胸に一気に怒りがこみ上げた。「俺の気を引くためなら、本当に手段を選ばないんだな!」
こんな計算高い女を、たった今、本気で心配してしまった自分が馬鹿らしい。
そう思うと、征士郎は上着を手に取って羽織り、容赦なくその場を立ち去った。
紗月は遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、洗面台に手をつき、どうにか立っていた。
自分でも信じられなかった。あんな見え透いた嘘を、彼はあっさり信じたのだ。
その背中が次第に遠ざかるにつれ、紗月の瞳からも光が消えていった。
涙なのか血なのか分からないものが視界を曇らせ、目の前に薄い靄がかかった。
今にも崩れ落ちそうな体を必死に支えながら、彼女は最後に残った生への執念だけを頼りに朔弥に電話をかけた。「……朔弥さん、助けて」
……
朔弥が駆けつけ、紗月を連れて病院へ向かう車の中。
彼女は完全に視力を失っていた。助手席に座る彼女の両目は虚ろで、何も捉えてはいなかった。
隣にいる朔弥が彼女の手を握った。「世界でも指折りの脳外科医にはもう連絡を取った。今すぐ俺と海外へ行こう。必ず治してもらえる」
紗月は疲れ切ったようにシートに体を預け、弱々しい声で言った。「あと2か月だけ……待ってくれない?」
その美しい瞳には、深い悲しみが滲んでいた。「どうしても最後までやり遂げたいことがあるの。2か月経ったら、朔弥さんと一緒に海外へ行くから」
痩せ細った彼女を見つめ、朔弥は怒りを滲ませた。「分かってるのか?2か月も経ったら病状がさらに進行して、手術すらできなくなるかもしれないんだぞ!」
紗月は頷き、申し訳なさそうに言った。「これで最後だから。最後に一度だけ、わがままを許して。もう二度と……こんなことはしないから」
朔弥は呆然とした。
やがて目を赤くして窓の外へ顔を向け、それ以上、何も言えなくなった。
数日後、紗月の視力は戻った。
ただし、以前のようにはっきりとは見えない。視界はひどく霞み、すべてがぼんやりとしか見えなくなっていた。
征士郎に病院にいたことを知られるのを恐れた紗月は、退院すると急いで自宅へ戻った。
屋敷の中は数日前のままだった。
あちこちが散らかり、バスルームの鏡には、あの日の赤黒い血痕さえ残っていた。
彼は、一度も帰ってきていなかった。
胸が締めつけられるように痛んだ。
紗月は黙々と部屋を片づけ、雨に濡れながらゴミを屋敷の門外へ運び出した。
そのあと、振り返って広く静まり返った屋敷を見つめた。
いつしか涙と雨が混じり合い、頬を伝っていた。
喉の奥に苦いものが込み上げるのを感じながら、紗月は小さな声で歌を口ずさんだ。「目を開けても、何も見えない……そばにいるのが誰なのかも……」
……
深夜。足音を耳にして、紗月はようやく征士郎が帰ってきたことに気づいた。
彼女は静かに彼を見つめた。
もうその顔をはっきり見ることはできない。まるで灰色のフィルターを一枚隔てているかのように、すべてが霞んでいた。
「帰ってきたのね。お湯、沸かしてくる」
立ち上がったそのとき、征士郎が書類を彼女の前に差し出した。
そこには大きく【離婚協議書】と書かれていた。
――そんなに早く、私と離婚したいの……?
悲しみに沈む紗月の顔を見て、征士郎は嫌悪感を募らせた。
「彼女は今、ひどい状態なんだ。榊原雅臣が復縁を迫って暴力まで振るった。今も入院している。彼女には、俺の妻という立場が必要なんだ」
彼の言う「彼女」が、琴葉を指していることくらい、紗月にも分かった。
背筋が凍りついた。
紗月は顔を上げ、征士郎をじっと見つめた。
聞きたかった。
琴葉が暴力を振るわれるのは許せないのに、どうして私を傷つけることは平気だったの?
征士郎は悲しみに満ちた彼女の眼差しを見ても、離婚協議書をそのままテーブルに投げ出した。「署名しろ。これは、俺が彼女に償わなければならないことだ」
第6話
紗月は口元に苦い笑みを浮かべた。「私は署名しないわ。前に出した条件を受け入れてくれない限り……一度でいいから、私を愛して」
「紗月、お前さえいなければ、琴葉があんな目に遭うこともなかったんだ!」
征士郎の言葉は刃のように鋭く、すでに傷だらけだった紗月の心をさらに深く抉った。
彼女は胸に込み上げる悔しさを必死に堪え、征士郎の冷ややかな顔を見つめると、一言一言噛みしめるように問い詰めた。
「琴葉に結婚を強いたのは私なの?離婚させたのも私?夫から暴力を受けるよう仕向けたのも私?
それとも、私の夫を誘惑するように仕向けたのも私だっていうの!?」
紗月がまだ言い終わらないうちに、乾いた音が響いた。
征士郎が平手で紗月の頬を容赦なく打ったのだ。
手加減など一切なかった。紗月はそのまま床へ倒れ込み、耳の奥で激しい耳鳴りがしていた。まるで世界からすべての音が消えてしまったかのようだった。
赤く潤んだ瞳で、信じられない思いのまま彼を見上げた。
――この10年間、征士郎が私に手を上げたことなど、一度もなかった。
それなのに、初めて私に手を上げた理由が、琴葉だった。
征士郎の視線が、紗月の頬にくっきりと残った赤い痕に留まる。その右手が、わずかに震えた。
しかし彼は紗月の視線から逃れるように目を逸らし、低い声で告げた。「嫌だと言おうが、拒もうが、この離婚協議書には必ず署名してもらう」
そう言い残すと、征士郎は振り返ることなく立ち去った。
紗月はふらつきながら床から立ち上がり、溢れそうになる涙を必死にこらえた。そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「琴葉があなたのもとを去ったのは、本当に裏切られたからだと思ってるの?
あの子が欲しかったのは権力と地位よ。一度だって心からあなたを愛したことなんてない……どうして、それが分からないの……?」
……
数日後。テレビでは、征士郎に関するニュースが大々的に報じられていた。
「清野グループ社長、愛する女性を守るために動く――
このほど、清野グループ社長の清野征士郎氏が、榊原グループの御曹司・榊原雅臣氏の元妻である白河琴葉さんがDV被害を受けていたことを知り、独自に集めた証拠を関係機関に提供していたことが明らかになりました。
その後、警察による捜査が進められ、榊原雅臣氏は逮捕されたということです。
清野社長と白河さんは以前から親しい間柄だったものの、さまざまな事情から一度は離れ離れになったとされています。今回の一件を受け、二人の関係にも改めて注目が集まっており、今度こそ二人の恋が実ることを願う声も寄せられています……」
――「今度こそ、二人の恋が実ることを願う」
紗月の心には、もはや何の感情も湧かなかった。
彼女と征士郎が結婚していることは、これまで世間には一切公表されていない。
それなのに彼は今、公の場で、世間の目など気にも留めず、離婚した琴葉と結ばれるつもりだと世間に知らしめたのだ。
紗月はソファの上で小さく体を丸め、命が少しずつ自分の中から流れ出していくような感覚に身を委ねていた。
これまで自分を生かしてきた最後の支えさえ、もうすぐ消えてしまいそうだった。
……
午後になると、宗一郎が訪ねてきた。
その顔には激しい怒りが浮かんでいる。「あいつはわしを何だと思っているんだ!あんな恥知らずな話を、よくも堂々とマスコミに報じさせたものだ!」
紗月は黙ったまま、そばで彼のためにお茶を淹れていた。
宗一郎はふと彼女の青白い顔色に気づき、不思議そうに眉を寄せる。「お前も体には気をつけなさい。きちんと休むんだぞ」
紗月の手がかすかに震えた。力なく頷きながら、胸の奥にはどうしようもない苦さが広がっていった。
宗一郎でさえ、自分の体調が悪いことに気づいた。
それなのに、そばにいた夫は何一つ気づかなかった。
きっと、本当にどうでもよかったのだろう……
「白河琴葉はろくな女じゃない。それに榊原雅臣も、もともと妻に暴力を振るうような男ではなかった。わしが調べたところ、あの女はこの4年間、あちこちの男に色目を使い続け、それでもまったく反省していなかったそうだ。あれでは、どんな男だって追い詰められる!」
紗月の瞳には、ただ虚しさだけが漂っていた。
宗一郎ですら簡単に調べられる真相を、征士郎はいったいどうして見て見ぬふりをしているのだろう。
「今や榊原家は日に日に落ちぶれているが、あの女は逃げ足だけは速かったな。さっさと榊原家を離れたかと思えば、今度は征士郎にしがみついて離れようとしない。
あれほど計算高い女を、わしは断じて清野家の嫁として迎え入れるつもりはない」
宗一郎はさらに何かを続けていたが、そのあとの言葉はもう紗月の耳には入っていなかった。
その瞬間、彼女の胸にまとわりついていた何かが、ふっと消えた。
「おじいさま……私、征士郎と離婚したいです」
「離婚」という言葉を口にするだけで、胸が押し潰されそうなほど重かった。
「何だって?」宗一郎は驚いて目を見開いた。
紗月には分かっていた。
彼が心配しているのは自分だけではない。自分が株式を保有する雨宮グループのことも気にかけているのだ。
かつて雨宮家も名門として栄え、今の清野家にも決して引けを取らなかった。
紗月の両親が亡くなってから徐々に衰退していったとはいえ、それでも雨宮グループが莫大な資産を有していることに変わりはない。
「雨宮グループの株式は、もうすべて征士郎に譲りました。私は何も受け取らずに離婚するつもりです」
その言葉を聞いた宗一郎の顔に、深い後ろめたさと申し訳なさが浮かんだ。
どうしても理解できないというように、彼は尋ねる。「そこまでして……お前はいったい何が欲しいんだ?」
「私が欲しいものなんて、ほかに何があるんでしょう。最初から最後まで……ただ、あの人だけが欲しかったんです……」
第7話
紗月はずっと、月影邸だけは自分に残された最後の安らぎの場所だと思っていた。
けれど、二度目の抗がん剤治療を終えて病院から戻り、リビングにいる琴葉の姿を目にした瞬間、結婚生活に残されていた最後の居場所さえ失われたのだと悟った。
「この家具は全部、新しいものに替えて」琴葉が引っ越し業者に指示を出していた。
「何も動かさないで」
玄関に立った紗月が、冷たい声で制した。
琴葉は振り返ると、勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべた。「お姉ちゃん、これからここは私と征士郎さんの家になるの。どう模様替えしようと私の自由よ。お姉ちゃんに口を出す権利はないわ」
こんなにも早く、自分のものだと主張し始めた琴葉を見て、紗月は皮肉を込めて言い返した。「今のあなたはまだ征士郎と結婚していないでしょう?征士郎の妻は私よ。愛人のあなたに、私の家で好き勝手に振る舞う資格があるの?」
その言葉を聞いた引っ越し業者たちは、何とも言えない表情で琴葉へ視線を向けた。
琴葉の顔がさっと青ざめる。「どうせ時間の問題よ」
「そこまで断言しないほうがいいんじゃない?あとで恥をかくことになるかもしれないわよ」
紗月が嘲るように言うと、琴葉の口元に突然、ぞっとするような笑みが浮かんだ。「そう?だったら、賭けてみましょうか」
紗月には、その言葉の意味が分からなかった。
次の瞬間、琴葉はテーブルの上に置かれていたフルーツナイフを手に取り、紗月の手をつかむと、ナイフをその手に握らせ、自分の手首を勢いよく切りつけた。
紗月は信じられないものを見るように彼女を見つめた。「……あなた、正気なの!?」
琴葉はナイフから手を離すと、傷ついた手首を持ち上げ、笑みを浮かべながら紗月を見た。「征士郎さんはもうすぐ帰ってくるわ。どっちを先に心配するか、見てみましょうよ」
案の定、ほどなくして背後から足音が聞こえてきた。
ガタン、と音を立てて琴葉がナイフを床へ落とした。それと同時に自らも床へ崩れ落ち、大粒の涙を次々とこぼした。「お姉ちゃん……痛い、すごく痛い……」
紗月は呆然とその場に立ち尽くしたまま、冷ややかに琴葉の芝居を眺めていた。その瞳には、微かな軽蔑さえ浮かんでいる。
自分は雨宮家のお嬢様として育った人間だ。たとえ濡れ衣を着せられようとも、こんな卑劣な真似をするような人間ではなかった。
「琴葉!大丈夫か?」
琴葉の泣き声を聞いた征士郎は、ほとんど駆け込むようにリビングへ入ってきて、すぐさま彼女を抱き起こした。
最初から最後まで、紗月には一度も目を向けなかった。
胸の奥から血が流れ続けているような痛みを感じながら、紗月は愛する男が別の女を抱きしめている姿を静かに見つめた。自分が今どんな気持ちなのか、もはや言葉にすることさえできなかった。
「紗月、覚えてろよ」
征士郎は琴葉を抱き上げ、立ち去る間際に冷たく言い残した。
慌ただしく遠ざかっていく男の背中を見つめながら、紗月は突然、声の限りに叫びたくなった。
――征士郎、あなたはいったいいつまで目を曇らせたままでいるつもりなの?
……
数日後。
紗月は会社で引き継ぎの準備を進めていた。自分が死んだあと、征士郎が会社を引き継ぐ際に余計な苦労をしないよう、できることはすべて済ませておきたかったのだ。
そこへ、慌てた様子のアシスタントが駆け込んできた。「社長、大変です!昨夜から今朝にかけて、進行中のプロジェクトが次々と契約を打ち切られています。取締役会も緊急会議を開いており、社長にもすぐ出席してほしいとのことです」
それを聞いた紗月は、手元の仕事を放り出し、大会議室へ急いだ。
ようやくたどり着いた頃には、室内はすでに大勢の人で埋め尽くされていた。
紗月は壁に手をつき、息苦しさに耐えながら議長席に座る男へ目を向けた途端、胸に鋭い痛みが走った。
征士郎は両手を組んでテーブルの上に置き、冷淡な眼差しで彼女を見ていた。
会議が始まると、紗月はすぐにすべてを理解した。
プロジェクトの危機など、ただの口実だった。
すべては征士郎が自分に離婚を迫るために仕組んだことなのだ。
彼は雨宮グループを人質に取れば自分が屈すると考えている。
けれど、自分がすでに雨宮グループの全株式を彼に譲っていることを、征士郎はまだ知らなかった。
「紗月が不倫を認めて離婚に応じさえすれば、雨宮家は何事もなく済むのよ」
口を開いたのは、琴葉の母親――紗月の叔母だった。
「紗月、雨宮グループがここまで持ちこたえられたのも清野社長のおかげだ。恩を忘れてはいけない。お前が不倫を認めれば、清野社長と琴葉の評判にも傷がつかずに済むんだ」叔父もそう続けた。
紗月の体がぐらりと揺れる。
彼女は議長席に座る男へ視線を向けた。「私に不倫を認めろって……あなたが決めたことなの?」
征士郎はわずかに眉を寄せた。
琴葉の名誉を守るためには、そうするしかない。
「お前が認めさえすれば、雨宮グループには何も起こらないと約束する」
一言一言が、刃となって紗月の胸に突き刺さった。
心の底にかろうじて残っていた彼への愛が、今まさに消えようとしていた。
ここまで非情になれる人だとは思ってもみなかった。
離婚を迫るだけでは飽き足らず、存在もしない不貞まででっち上げ、自分に認めさせようとしている。
これが、自分が命をかけて愛した男なのか。
「不倫を認めろというのなら、清野社長にお聞きします。私はいつ、誰と不倫したんですか?」紗月の声には、隠しようのない悲しみが滲んでいた。
「そこまで俺の口から言わせたいのか?」
征士郎は手にしていた写真の束を、会議室のテーブルへばら撒いた。
そこに写っていたのは、紗月と朔弥だった。
けれど、どの写真を見ても二人はごく普通の友人同士にしか見えず、不適切な関係を示すようなものは何一つない。
それでも、この場に紗月を庇う者は誰一人としていなかった。
「もう認めなさい、紗月。まさか、ご両親が一から築き上げた会社を自分の手で潰すつもりなの?」
「もともと琴葉の結婚相手を奪ったのはお前だろう。今こそ返すべきじゃないのか」
「ここにいる株主たちのことも少しは考えてくれ」
四方八方から浴びせられる圧力が、紗月の心を容赦なく押し潰していった。
とうとう耐えきれなくなり、彼女の頬を涙が伝った。
これが、自分の家族なのだ。
利益を前にすれば、血のつながりも情も、すべて無意味になる。
「分かった……認めるわ。認めればいいんでしょう――!」
第8話
紗月は征士郎を深く見つめた。長い沈黙の末、ようやく苦しげに口を開いた。「ただ願っているわ。あなたがこの先の人生で、望むものをすべて手に入れられますように。そして……いつまでも後悔することがありませんように」
そう言って離婚協議書に署名すると、彼女は振り返ることなくその場を去った。
これですべてが終わった。
自分が4年間、大切に守り続けてきた結婚生活も、ずっと心の奥深くにしまい込んできた征士郎への想いも――
……
紗月は朔弥を巻き込みたくなかった。
そのため数日後、グランド・セレスホテルへ行き、征士郎が用意した男を相手に、不倫現場を偽装することを承諾した。
結婚していた事実をいつまでも世間に隠し通せるとは限らない。万が一、紗月と征士郎が夫婦だったことをマスコミに報じられれば、琴葉は不倫相手ということになり、世間から激しい非難を浴びることになる。
もちろん、紗月が征士郎の要求を受け入れたのは、琴葉のためではない。
どうせ自分はもうすぐ死ぬのだ。今さら世間からどう思われようと、何の意味もない。
ただ最後に、幸せにはならなかったこの結婚に、自分の手で終止符を打ちたかった。
それが良い結末であろうと、悪い結末であろうと。
しかし、運命はあまりにも残酷だった。
約束の日、紗月の病状が急激に悪化し、突然その場に倒れて意識を失った。
意識が消えかけるなか、彼女は手探りでスマホに触れ、連絡先の一番上に表示された名前をタップした。
電話がつながると、征士郎の冷たい声が聞こえてくる。「どこにいるんだ?くだらない真似はするなよ。俺が言ったことは必ず実行する人間だと、お前も分かっているだろう」
紗月は、もう行けないのだと伝えたかった。
けれど、どれほど声を出そうとしても、喉からは何の音も出なかった。
震える指先で画面に表示された名前に触れる。
――【何よりも手放したくない幸せ】。
視界はすでにぼやけ、何も見えなくなりつつあった。
……
3日後。紗月は一命を取り留めた。
目を覚ました彼女のそばには、朔弥のほかに、長い間会っていなかったもう一人の人物がいた。
――月岡栞奈(つきおか かんな)。
紗月の二卵性双生児の姉だった。
雨宮家と月岡家は代々親しい間柄で、月岡家の夫婦には子供がいなかった。ちょうどその頃、紗月の両親に双子の娘が生まれたため、姉の栞奈を月岡家に託し、育ててもらうことになったのだ。
姉は昔から雨宮家に対してわだかまりを抱いており、ほとんど帰ってこなかった。たまに戻ってきても、紗月をからかったり、いじめたりするばかりだった。
けれど今、その姉が病床のそばに座り、骨ばかりが目立つほど痩せ細った紗月を見つめていた。氷のように冷ややかな顔には何の表情も浮かんでいなかったが、その瞳の奥には隠しきれない痛ましさが滲んでいた。
「お姉ちゃん……どうして来たの?」
朔弥に支えられながら、紗月は体を起こした。
栞奈は言葉を詰まらせた。赤い唇をわずかに開き、いつもの冷淡な口調で答える。その声には微かな掠れが混じっていた。「どれだけひどい目に遭わされたのか、見に来たのよ」
紗月は、姉が素直ではないだけで、本当は優しい人だと知っていた。無理に口元に笑みを浮かべた。「お姉ちゃん、私なら大丈夫。朔弥さんの言うことなんて真に受けないで。ちょっと……」
紗月が最後まで言い終えるより先に、栞奈は彼女を強く抱きしめた。
肩に、温かな涙がぽたりと落ちる。
その瞬間、紗月の胸がかすかに震えた。
姉が泣くところなど、今まで一度も見たことがなかった。
「紗月、よく聞きなさい。私の妹をいじめていいのは、この私だけよ!ほかの誰かがあなたを傷つけたら、私が10倍、100倍にして返してやるから――!」
……
その後、紗月は雨宮グループがすでに消滅したことを知った。
征士郎は宣言したとおり、容赦なく雨宮グループを吸収合併し、雨宮家の事業は完全に失われていた。
そんななか、宗一郎の70歳の誕生祝いが、清野家本邸で盛大に開かれることになった。
月岡家も招待客に名を連ねていた。
栞奈は一流のメイクアップアーティストを呼び、さらに最高級のドレスまで用意して、紗月を美しく着飾らせた。
紗月はもともと出席する気などなかったが、栞奈に散々小言を言われ、せっかくの姉の好意を無下にすることもできず、結局は従うことにした。
宴当日、会場には上流階級の名士や財界の大物たちが大勢集まっていた。
征士郎と琴葉の姿もある。
宗一郎は琴葉を気に入ってはいなかったものの、孫の性格はよく分かっていた。一度こうすると決めた征士郎の意思を変えられる者など、誰もいない。
琴葉は上流社会の人々の間を行き来しながら、得意げな表情を隠そうともしていなかった。
そのときだった。
華やかなピンク色のドレスをまとった紗月が、姉である栞奈の腕に手を添え、会場に姿を現した。
入念なメイクが病による疲労も青白い顔色もすべて覆い隠している。
これほど美しく装ったのは、本当に久しぶりだった。
今の紗月は、まるで初夏に咲き誇るシャクヤクの花のようだった。
息を呑むほど美しく、会場にいるどの女性よりもひときわ目を引く存在感を放っていた。
それを目にした琴葉の瞳に、隠しきれない嫉妬が浮かんだ。
彼女は真っ直ぐ二人のもとへ歩み寄った。「お姉ちゃん、今日はおじいさまの70歳のお祝いよ。征士郎さんとはもうすぐ離婚するのだから、こういう席に顔を出すのはどうかと思うけど?」
栞奈は何も言わず、さりげなく紗月を自分の背後へ庇うと、鋭い目で琴葉を見据えた。「今、この子を何て呼んだ?」
「お姉ちゃん……?」栞奈のことを知らない琴葉は、怪訝そうに彼女を見返した。
その言葉を言い終えた瞬間――
パァン!
乾いた音が会場に響き渡った。
栞奈は手を振り上げ、容赦なく琴葉の頬を打った。
琴葉はその勢いに耐えきれず、そのまま床へ倒れ込んだ。
第9話
宴会場は、一瞬にして水を打ったように静まり返った。
琴葉が倒れ込んだ拍子に、近くのテーブルまで倒れ、グラスや食器が次々と床へ落ちて砕け散った。
突然の出来事に驚いた人々は一斉にこちらへ視線を向けた。
――あれは清野社長の幼なじみではなかったか?なぜ月岡家の娘に殴られて床に倒れているんだ?
「あなたに紗月を『お姉ちゃん』と呼ぶ資格なんてない!よく覚えておきなさい。今日限りで、雨宮家と白河家は一切の縁を切るわ」
栞奈は、はっきりと「雨宮家」と口にした。
彼女自身もまた、紛れもなく雨宮家の血を引く人間なのだから。
そのとき、少し離れたところから征士郎が人混みをかき分けて現れ、倒れていた琴葉を抱き起こした。
琴葉はその胸にすがりつき、泣きながら訴える。「征士郎さん……あの人が私を叩いたの」
征士郎の鋭い視線が栞奈へ向けられるのを見て、紗月は心配になり、栞奈の手をそっと引いた。
すると栞奈はその手を逆に強く握り返し、その場にいる全員を見渡した。「この私が、ここではっきり宣言しておくわ。今後、月岡家と清野家は敵対する関係になる。清野家と手を組む者は、すべて月岡家の敵と見なす」
栞奈はすでに月岡家の全事業を引き継いでいた。これほど強気な言葉を口にする以上、征士郎と真っ向から渡り合う覚悟も実力も備えている。
誰もが、まさかこのような展開になるとは予想していなかった。
清野家も月岡家も、どちらも容易に敵に回せる相手ではない。会場にいる者たちは口を閉ざし、誰一人として軽々しく動こうとはしなかった。
やがて栞奈は征士郎へ視線を向け、意味ありげに言い放った。「清野社長、せいぜいその女を大切に守ってあげることね。できることなら、一瞬たりとも目を離さないほうがいいわよ――」
征士郎は琴葉を抱いたまま、栞奈の背後に立つ紗月へ目を向けた。
二人の視線が重なる。
しかし、どちらも何も言わなかった。
琴葉は征士郎の視線に気づくと、瞳に一瞬、動揺の色を浮かべ、急いで彼の手をつかんだ。「征士郎さん……」
征士郎は我に返り、淡々と彼女へ視線を戻した。「余計な揉め事を起こすな」
琴葉は呆然とした。
少し離れた場所にいた紗月も、その言葉には疑問を覚えた。
――征士郎は琴葉を庇わなかった。
この上流社会において、征士郎ほどの男が口にする一言は重い。今の一言だけで、今後この社交界で琴葉がどう扱われるかさえ決まってしまう。
どうして……?
紗月には分からなかった。
けれど、考えるのをやめた。
もう自分と彼には、何の関係もないのだから。
……
紗月は雨宮家の旧邸へ戻って暮らすことになった。
栞奈からは一日に何度も電話がかかってきて、夜になれば仕事を早めに切り上げ、紗月に付き添うために帰ってきた。
姉が今では上場企業の社長であることを、紗月は知っていた。栞奈自身は何も言わないが、仕事が忙しいことくらい分かっている。
「お姉ちゃん、仕事に戻っていいよ。朔弥さんが来てくれるから、私のことは大丈夫」
「私の予定をあなたに決めてもらう必要はないわ」
その言い方がおかしくて、紗月は思わず吹き出した。そして後ろから、そっと栞奈を抱きしめた。
栞奈の体が明らかに強張った。
けれど、紗月を振りほどくことはなかった。
しばらくして、小さな声で尋ねる。「どうして病気のこと、もっと早く私に言わなかったの?」
紗月は姉の肩に頬を預けた。
瞼がひどく重い。
本当に、もうあと数日も持たないのかもしれない。
「お姉ちゃん……清野家とは争わないで。私は、お姉ちゃんにも征士郎にも傷ついてほしくないの」
そのとき、手の甲に冷たいものが落ちた。
目を向けると、栞奈の涙だった。
紗月の胸が締めつけられる。「ごめんね。またお姉ちゃんを泣かせちゃった」
栞奈の脳裏に、幼い頃、いつも自分の後ろをちょこちょことついて回っていた、小さく愛らしい妹の姿が蘇る。
涙はもう止まらなかった。「分かったわ……このお馬鹿さん」
……
紗月は姉を説得して仕事に戻らせると、一人で広い雨宮家の旧邸に残った。
長年まともな手入れをされていない屋敷は、あちこちが傷んでいる。天井から吊り下がるクリスタルのシャンデリアも半分以上の電球が切れており、まるで今にも尽きようとしている彼女の命そのもののようだった。
最近、紗月が眠っている時間はますます長くなり、悪夢を見ることも増えていた。
幽霊や怪異など怖くはない。
彼女が何より恐れているのは、征士郎に捨てられる夢を見ることだった。
けれど、恐れているものほど夢に現れる。
紗月には分からなかった。
もう自分から手放したというのに、どうして征士郎はまだ夢の中にまで現れ、自分を苦しめ続けるのだろう。
本当にこの世から完全に消えてしまわなければ、彼から解放されることはないのだろうか。
その日、征士郎が雨宮家の旧邸を訪れた。
バルコニーに座る女の姿を目にした瞬間、彼は思わず足を止めた。
風に揺れる細い葦のように、あまりにも弱々しい。
――いつから、こんなに痩せたんだ?
「紗月」
なぜか征士郎は声を落としていた。
まるで少し離れた場所にいる彼女を驚かせるのを恐れているかのように。
しかし、紗月は何の反応も示さなかった。
実は、征士郎に平手打ちされたあの日から、紗月の右耳は聞こえなくなっていた。
そして今では脳腫瘍の進行に伴い、左耳の聴力まで低下していた。
征士郎はさらに数歩近づき、もう一度口を開いた。「紗月、俺は結婚する」
第10話
バルコニーに、冷たい風が吹き抜けた。
骨ばかりが目立つほど痩せ細った紗月の手が、ほんのわずかに動いた。本当に、ただ一度だけ。
このとき初めて、紗月は征士郎という男を心の底から残酷な人だと思った。
体を傷つけるよりも、心を抉るほうがよほど残酷だ。
彼はいったい、どれほど自分のことをどうでもいいと思っているのだろう。
自分が彼を心から愛していると知っていながら、こうして平然と目の前に現れ、別の女と結婚すると告げられるほどに――
「来週の月曜日、琴葉のために盛大な結婚式を挙げる。お前があのとき犯した罪を、これで償うつもりだ」
征士郎は紗月の前まで歩み寄ると、結婚式の招待状を無造作に彼女の膝元へ投げた。
紗月は膝の上に落ちた招待状を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。征士郎を見つめる瞳が、かすかに震える。「罪……?私が人生で犯した一番大きな罪は……あなたを愛したことよ」
これまでの人生、誰に対しても恥じるようなことはしてこなかった。
ただ一人、自分自身にだけは、あまりにも酷いことをしてしまった。
征士郎はさらに眉間の皺を深くし、瞳に嫌悪の色を滲ませた。「本当に、自分に都合のいい理由を見つけるのだけは上手いな」
そう言ったあと、彼の視線は紗月のひどく痩せ細った体に向けられ、ほんの一瞬、そこに留まった。
しかしすぐに、以前、彼女が自分の気を引くために血糊まで用意したことを思い出す。
征士郎は容赦なく嘲笑した。「そんな惨めな姿を見せれば、俺が同情するとでも思ったのか?そんなに痩せこけて、まるで幽霊みたいな姿になって……誰がお前なんか好きになるんだ?」
その言葉を聞き、紗月の喉がひどく苦しくなった。
それでも無理に笑みを浮かべる。「誰かに好かれたいなんて思ってないわ」
「だったら、なぜ俺に『自分を愛する夫を演じてほしい』なんて頼んだ?普通の夫婦みたいに手をつないで、抱きしめて、愛してほしいって言っただろう?」征士郎は、彼女の心の最も痛いところを抉らなければ気が済まないかのようだった。
紗月はその無情な顔を見つめ、青白い唇をわずかに開いた。
――だって、あなたが好きだから。
そう言いたかった。
けれど、喉元まで出かかった言葉を無理やり飲み込むと、ただ淡々と答えた。「ただ何となく言っただけよ。別に理由なんてないわ」
ほんの数言交わしただけで、紗月の体からはほとんどすべての力が失われていた。
征士郎は彼女が何とも思っていないような態度を取ると、興味を失ったようにその場を去った。
……
征士郎が立ち去って間もなく、救急車のサイレンが雨宮家の旧邸周辺に鳴り響いた。
紗月の体にはさまざまな医療器具が取り付けられ、顔には酸素マスクが装着されていた。
青白い手には、あの赤い結婚式の招待状が固く握りしめられていた。
朔弥は彼女の手を握り、声を上げることさえできないほど泣いていた。「紗月、怖がらなくていい。俺がいるから」
紗月は朦朧とする意識のなかで彼を見つめると、残された力をすべて振り絞り、握っていた結婚式の招待状を朔弥の手に押しつけた。
青白い唇がわずかに動く。
けれど、もう声が出なかった。
朔弥は彼女の手にそっと口づけた。その体は激しく震えていた。「紗月、もう何も言わなくていい……」
それでも紗月は何度も首を横に振り、酸素マスクを外そうと手を伸ばした。
朔弥の目は真っ赤に充血していた。
最期に伝えたいことがあるのなら、すべて言わせてやりたかった。
震える長い指で、自ら酸素マスクを外してやった。
紗月は朔弥の手を強く握り、聞き取ることさえ難しいほどの声で、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「私に残された雨宮家の財産を……お願い、あの人に渡して……
……それから、私の代わりに……あの人の結婚式に行って……伝えて……」
紗月は、征士郎が立ち去る前に自分に投げかけた問いを思い出した。
その瞳が、微かに揺れた。「だって、私は……」
――征士郎が好きだから。
その言葉を、彼女が口にすることは二度となかった。
朔弥を握りしめていた手から力が抜け、静かに垂れ下がった。
赤い招待状が床へ落ちた。
その鮮烈な赤だけが、ひどく目に焼きついた。
「ピー――」
耳を刺すような電子音が響いた。
隣に置かれた心電図モニターの波形は、すでに一本の直線へと変わっていた。
もう、わずかな揺れさえなかった。
……
月曜日。征士郎の結婚式は、荘厳な霞野教会で執り行われた。
体にぴたりと合ったオーダーメイドのスーツに身を包んだ征士郎は、堂々とした晴れやかな姿を見せていた。
4年の歳月を経て、ようやくあのときの過ちを償うことができる。
今日は、喜ぶべき日なのだ。
式場では、新婦が純白のウェディングドレスをまとい、美しく華やかな姿で征士郎を愛おしげに見つめていた。
しかし征士郎の視線は、なぜか教会のあちこちを彷徨っていた。
どれだけ探しても、あの忌々しいほど見慣れた姿が見当たらない。
征士郎は無意識に眉をひそめた。
わざわざ招待状まで届けてやったというのに、あいつは来ないつもりなのか――?
そのとき、教会の大きな扉がゆっくりと開いた。
黒いスーツを身にまとい、胸元に白い薔薇を挿した一人の男が、静かに教会へ足を踏み入れた。「清野紗月の弁護士です。彼女の遺言をお伝えするために参りました……」