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彼のミューズ
藤井直哉(ふじい なおや)が両耳の聴力を失った途端、直哉が長年想い続けていた石川美緒(いしかわ みお)は、逃げるように海外へ渡った。 絶望のあまり荒れ果てていく直哉を見て、私はため息をつきながらも彼のそばに残ることを選んだ。 それから三年。 私は直哉の創作を支える存在となり、耳が聞こえない状態でも、直哉が人の心を震わせる曲を生み出せるよう、ずっと寄り添い続けた。 かつて直哉は、私をまっすぐ見つめて言った。 「君がいなくなったら、俺は生きていけない」 三年後、直哉の聴力は回復した。藤井家では、直哉の耳が再び聞こえるようになったことを盛大に祝い、それと同時に、私たちの結婚準備も進められていった。 周囲の誰もが喜びに沸く中、私だけは素直に笑えなかった。海外から戻ってきた美緒と直哉が手を取り合い、愛おしそうに見つめ合っている姿を目にしてしまったからだ。 そして結婚式当日、三年前にもらった一通の招待状を手に、私は海外へ向かう飛行機に乗り込んだ。
チャプター (1)
第1章
藤井直哉(ふじい なおや)が両耳の聴力を失った途端、直哉が長年想い続けていた石川美緒(いしかわ みお)は、逃げるように海外へ渡った。
絶望のあまり荒れ果てていく直哉を見て、私はため息をつきながらも彼のそばに残ることを選んだ。
それから三年。
私は直哉の創作を支える存在となり、耳が聞こえない状態でも、直哉が人の心を震わせる曲を生み出せるよう、ずっと寄り添い続けた。
かつて直哉は、私をまっすぐ見つめて言った。
「君がいなくなったら、俺は生きていけない」
三年後、直哉の聴力は回復した。藤井家では、直哉の耳が再び聞こえるようになったことを盛大に祝い、それと同時に、私たちの結婚準備も進められていった。
周囲の誰もが喜びに沸く中、私だけは素直に笑えなかった。海外から戻ってきた美緒と直哉が手を取り合い、愛おしそうに見つめ合っている姿を目にしてしまったからだ。
そして結婚式当日、三年前にもらった一通の招待状を手に、私は海外へ向かう飛行機に乗り込んだ。
第1章
病院で、直哉の聴力が確実に回復しつつあると診断されたとき、私は自分のことのように嬉しかった。
慣れた手つきで手話を使い、おめでとうと伝える。
三年間ずっと沈んでいた直哉の顔に、初めて心からの笑みが浮かんだ。
「真帆、この三年間、本当にありがとう」
私は笑って首を振った。愛している人のためだ。これくらい苦労のうちに入らない。
いつもの癖で直哉の手を握ろうとしたが、伸ばした手は空を切った。
胸の奥にも、ぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。
顔を上げると、直哉は何事もなかったかのような顔をしていた。
「真帆、みんな待ってる。早く行こう」
一瞬だけ戸惑ったものの、すぐにその感情を押し込め、私も穏やかに笑った。
「そうだね。行こうか」
私たちはもう大人だ。何かあったとしても、取り乱さずに振る舞うくらいはできる。
バッグの中には、少し前に直哉の父から渡された株式譲渡契約書が入っている。それもあってか、今は些細なことで気分が落ちるわけでもなかった。
病院を出るとき、直哉は私の支えを待っているかのように手を差し出しかけた。私はそれに気づかないふりをして、一足先に外へ出る。
きっと忘れているのだろう。この三年間、誰かの愛情や世話を必要としていたのは直哉であって、私ではない。
直哉が聴力を失ったばかりの頃、私は心配で仕方なかった。小さい頃から一緒に育ってきた幼なじみだったし、何より当時の私はずっと直哉に片想いしていた。
だから迷うことなく直哉と同じマンションへ引っ越した。直哉の隣の部屋で暮らし、必要とされればいつでもそばにいた。ドアの開け閉めのような些細なことまで、自然と私が手を貸すようになっていた。
直哉も途中で気づいたらしい。差し出しかけた手を気まずそうに引っ込めると、何も言わず私の後ろをついてきた。
パーティールームの扉を開けた瞬間、私は足を止めた。中はすでに大盛り上がりだった。
主役である直哉の到着など待ちきれなかったらしく、友人たちはとっくに乾杯を始めている。そしてその輪の中心にいたのは、つい先日海外から帰国したばかりの美緒だった。
なるほど。直哉が私の手を避けたのは、別に自尊心が傷ついたからではなかったらしい。
さっきまで私の後ろを歩いていた直哉は、美緒を見つけた途端、思わず一歩前へ出た。緊張したときの癖なのか、無意識に耳たぶへ触れながら、その視線は美緒だけを追っている。
慌てて前へ出たせいで、直哉は私にぶつかったことにすら気づかなかった。バランスを崩し、危うく転びそうになる。
そのとき、後ろから誰かがそっと私の体を支えてくれた。すぐに手を離し、何事もなかったようにグラスを一つ差し出してくる。
「真帆。だから前から言っただろ。あいつには情なんてないって」
振り返ると、そこに立っていたのは中村蓮(なかむら れん)だった。
私は差し出されたグラスを受け取り、軽く合わせる。
「仕方ないでしょ、蓮。私、直哉のことがどうしようもなく好きなんだから」
蓮は小さく笑った。私の隣に立つと、整った目元を細め、まっすぐこちらを見つめてくる。
「真帆って、本当にひどい女だな」
部屋の中央では、もうみんなが直哉と美緒を囲み、二人の再会を祝っていた。
私は少し離れたところから直哉の背中を見つめた。聴力を失っていた三年間、私がそばで支え続けたからか、直哉は以前よりもむしろ人を惹きつける雰囲気をまとっていた。
どこか儚げで憂いを帯びた若きピアニスト。その隣には、明るく華やかな雰囲気をまとった令嬢。こうして並んでいると、まるで恋愛小説の主人公同士のように、お似合いに見えた。
私は少しだけ顔を傾ける。ワインで濡れた唇を開き、わざとゆっくり尋ねた。
「私のどこがひどいの?」
蓮は身をかがめると私の手を取った。そして手の甲へ、軽く口づけを落とす。
「あいつには情がないけど、俺にはある。真帆、そろそろ俺のことも見てよ」
いつの間にか部屋が静まり返っていた。振り向いて初めて気づく。直哉をはじめ、その場にいた全員が、私と蓮のいる隅のほうを見つめていた。
直哉は何とも言えない表情でこちらを見ている。一歩こちらへ来ようとしたがその直後、美緒が遠慮がちに直哉の服の裾をつまんだ。
直哉の足がぴたりと止まる。それでも視線だけは、まるで縫いつけられたように私から離れなかった。やがて堪えきれなくなったように口を開く。
「真帆、お前たち、何して……」
第2章
私は直哉の言葉など聞こえなかったふりをして、ただ目の前で私をまっすぐ見つめる蓮に笑いかけた。
「いいよ」
大きくも小さくもないが、その場にいる全員にはっきり聞こえるくらいの声だった。もちろん、聴力を取り戻したばかりの直哉にも。
直哉の表情が一瞬で変わった。今度こそ構わずこちらへ来ようとしたそのとき、美緒が手を滑らせグラスを床に落とした。
甲高い音を立ててガラスが砕ける。そこへ美緒のか細い悲鳴まで重なり、まるで黒板を爪で引っかいたような耳障りな音が響いた。
やり方は単純だが、効果は抜群だった。
直哉は迷うことなく振り返ると、美緒の両手を取って怪我がないか確かめた。美緒の目に浮かんだ涙を指先でそっと拭い、優しい声で宥めている。
美緒は形ばかり手を引こうとしたあと、甘えるように直哉の胸元へ身を寄せた。
「直哉くん、真帆さんのところに行ってあげて。怒らせたらダメだよ。私はちょっと脚をガラスで切っただけ。大丈夫だから」
二言目を聞いた瞬間、直哉は美緒を横抱きにした。
「病院に行くぞ」
焦りきった声だった。
私はその光景を興味深く眺めていた。高校時代、私がいじめっ子にガラスを投げつけられて怪我をしたときも、直哉はあんなふうに私を心配してくれたからだ。
華奢でか弱い美緒は、確かに男の庇護欲をそそる。でも直哉はまた忘れている。
どん底にいる人間を引っ張り上げるのは、ただ守られるだけの存在では無理なのだ。
三年前、私は海外で学ぶ機会を断った。昔から目をかけてくれていた先生は、そんな私に失望を隠そうともしなかった。
先生が一人で去っていくのを見送りながらも、私の頭の中にあったのは直哉のことだけだった。
17歳の頃の直哉は、私にとって大きくて頼れる存在だった。
いじめられていた私を助けてくれたのも直哉。泣く私を抱きしめてくれたのも直哉。自分の身を自分で守る方法を教えてくれたのも直哉だった。
けれど24歳になった彼は変わってしまった。両耳を押さえ、暗い部屋の隅で力なくうずくまるようになった。
恋人に捨てられたあとは、意識が飛ぶほど酒を飲み、私の腕の中で泣きじゃくった。
そして私が海外へ行くと知ったとき、直哉は私の小指を頼るように握り、今にも壊れそうな声で言った。
「真帆。俺にはもうお前しかいない」
そんな直哉を、私はどうしても置いていけなかった。
だからまだ付き合ってもいないのに、私は半ば押しかけるように直哉のマンションへ引っ越した。そして食事から日々の生活まで世話をするようになった。
初めて直哉のために料理をした日、包丁で指を深く切った。
抜け殻のようになっていたはずの直哉が、慌てて駆け寄ってきた。私の指を強く押さえて止血しながら、その目から涙がこぼれ、私の手の甲に落ちた。
あのとき私は確信した。直哉も私に対して満更でもないのだと。
だから直哉が自暴自棄になり、何度もピアノの鍵盤に頭を打ちつけたときも、私は迷わずその間に手を差し入れた。何度も鍵盤に打ちつけられた手は血だらけになった。
痛かったが、その痛みが直哉の閉ざしていた心をこじ開けた。
その日、震える手で私の傷を手当てした直哉は、そのあとすぐ、美緒が残していったものをすべて片づけた。
それまでなら誰にも触らせなかった、大切な思い出の品だった。
嬉しくなかったと言えば嘘になる。
直哉は読唇術を嫌がった。だから私は、何度拒まれても根気よく彼と一緒に手話を覚えた。何度突き放されても、二人だけの特別な会話の方法ができていくことが、密かに嬉しかった。
この三年間、直哉が私に向けてくれた優しさだって、嘘ではなかった。
私が手を怪我したあの日、直哉は傷ついた私の手を握り、こう約束した。
「俺が自分を傷つけるたびに真帆まで傷つくなら、もうやめる。お前のために生きる」
手話がうまくできずに苛立ったときには、私にすがるように抱きつき、顔を私の胸に埋めて言った。
「真帆がいてくれてよかった」
そして私たちが正式に付き合い始めた日、直哉は一曲の音楽を私に贈ってくれた。
音楽に詳しくない私でさえ、その曲に込められた深い想いはわかった。あの瞬間、私は完全に直哉に心を奪われた。
この曲は私から着想を得て作ったのだと直哉は言った。私がいなくなったら生きていけないとも言った。
藤井家の人たちも、そんな私に心から感謝してくれた。直哉の父親に至っては、将来の嫁として迎えるつもりで、多額の自社株まで私に譲ってくれた。
ずっと願い続けてきた恋がようやく叶おうとしていた。だから私は本当は簡単に諦めたくなかった。
蓮とみんなの前であんなやり取りをしたのだって、少しは直哉の心を取り戻したいという気持ちがあった。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。直哉が私を愛していた証拠を必死になって思い返す。だが何よりも鮮明に浮かんできたのは、美緒を抱き上げ、私を置き去りにして去っていく直哉の後ろ姿だった。
第3章
私は最後にもう一度だけ直哉を信じてみようと決めた。
直哉が帰ってきたのは夜の十一時を過ぎてからだった。私はソファでうとうとしていた。最初に感じたのは、直哉の香りが染みついた上着が、そっと私に掛けられる感触だった。
少しだけ心がほどける。私は半分眠ったまま、思わず不満をこぼした。
「耳が治ってから、全然私を頼ってくれなくなっ……」
だが最後まで言い切ることはできなかった。
部屋の明かりはついていない。それでも窓から差し込む月明かりの下で、直哉の上着についた深紅の口紅の跡だけは、嫌になるほどはっきり見えた。
胸に刺さっていた棘が、一気に根を張ったような気がした。
美緒はわざと私に見せつけている。そして直哉もそれを許したのだ。
直哉は昔から女性が化粧をするのが好きではなかった。
以前、私の頬をつまみながら、嫌そうに言ったことがある。
「化粧したまま近づくなよ。匂いがきつい」
私は昔からおしゃれが好きだった。それでも直哉が嫌がるから、この三年間ずっとほとんど化粧をせず、香水さえ使わなかった。
なのに今、少し遅れて直哉の上着から女性物の香水の匂いが漂ってきた。もう平静ではいられなかった。気がつけば私は直哉の手を強くつかんでいた。
大きく息を吸う。心臓は激しく脈打ち、胸の奥が引き裂かれそうに痛かった。
「直哉。まだ私のことを愛してる?それとも……私ともう結婚するつもりはないの?」
直哉は答えなかった。その沈黙だけで、足元が崩れ落ちていくようだった。全身が冷たくなっていく。
もう駄目なんだ。そう思い、直哉をつかんでいた手から力が抜けていったその瞬間、直哉が私を強く抱きしめた。
一気に希望が戻ってくる。泣きそうになるほど嬉しかった。そうだ。三年間、毎日のように一緒にいたのだ。そんな関係が、たった一日で壊れるはずがない。
やがて直哉がゆっくり口を開いた。
「真帆、ごめん」
その言葉は、ずっと頭上に吊るされていた刃が、とうとう落ちてきたようだった。胸の真ん中を一刀両断された気がして痛かった。
私はゆっくりと腕を下ろした。
目の前にいる27歳の直哉を通り越して、その向こうに17歳の直哉が見えた気がした。青々とした並木道の中、17歳の直哉が、笑いながら私に手を振っているところだ。
「真帆。自分の身は自分でちゃんと守らなきゃだぞ」
17歳の夏の熱い風は、長い年月を漂った末に、とうとうどこかへ消えてしまった。
夢のようだった。夢が覚めたのなら、もう行かなくてはいけない。
直哉はまだ、私を宥めるように肩を軽く叩いていた。かつてはそれだけで安心できた手が、今は恐ろしいほど他人のものに感じられた。
「何があっても、真帆がしてくれたことは一生忘れない」
私は涙を拭い、どうにか感情を隠した。その言葉に思わず笑いそうになった。
何それ。まるで私が、これまで尽くしたことを盾にして、自分を愛せと迫っているみたいじゃない。
私は深く息を吸い、できるだけいつも通りの声で言った。
「忘れていいよ。もう愛してないなら、この三年間は取引だったってことにしよう。お父さんから株も十分もらったし。
婚約を解消したいならそれでもいい。その代わり慰謝料はちゃんと払って」
一言口にするたび、胸から血が流れていくように痛かった。それでもせめて最後くらいは惨めになりたくなかった。
直哉の表情が一変した。
「真帆……お前、俺の世話をしてたのは金のためだったのか?」
顔から一気に余裕が消える。私の腕をつかむ両手にも、無意識に力がこもっていた。
私は思いきり直哉を振りほどいた。
「離して。痛い!」
押し返された直哉は、一瞬、傷ついたような表情を浮かべた。呆然と私を見つめながら、小さく呟く。
「蓮に触られるのは平気だったじゃないか」
私は思わず聞き返した。
「直哉は今、どういう立場で私を抱きしめてるの?それにどういう立場で蓮に嫉妬してるの?今日、美緒を抱いて出ていったとき、私たちがまだ別れてもいなかったって、一度でも思い出した?」
美緒の名前を出した途端、直哉は我に返ったようだった。眉を寄せる。
「美緒はお前とは違う。あいつは弱いんだ。俺が守ってやらないと」
いつもそうだった。私にはあれほど深い愛情を見せ、あれほど私を必要としていたのに、美緒が絡んだ途端、まるで別人になる。
急にもう話す気さえなくなった。私はソファの背もたれに頭を預け、目を閉じた。
そして何となく、煙草に火をつける。直哉がまた眉をひそめた。
「真帆。俺、煙草の匂い嫌いだって言っただろ。それに香水も。今日、香水つけたのか?匂いきついから、これからは……」
私は鼻で笑った。淡々と言う。
「私じゃなくて美緒の香水だけど」
直哉は喉を塞がれたように言葉を失った。煙草の先だけが静かに燃えている。
長い沈黙のあと、直哉はようやく苦しそうに言った。
「……ごめん」
もう聞き飽きていた。
何の意味もない「ごめん」なんてもういらない。
青灰色の煙越しに、私は最後にもう一度だけ、十年近く愛し続けた男を見つめた。
それから煙草を灰皿に押しつけ、静かに言った。
「別れよう。もう直哉が何をしようと、私には関係ない。振込先は知ってるでしょ。婚約破棄の慰謝料はそこに入れておいて」
直哉は何も言わなかった。私が玄関のドアを開けたときになって、突然顔を上げる。声が不自然なほど震えていた。
「真帆。俺、今でもお前のこと愛してる。ただ……」
その先は聞かなくてもわかった。ただ、美緒を捨てられない。ただ、私は何があってもずっと同じ場所で待っていると思っている。全部わかっていた。
だから私はそれ以上聞かなかった。そのままドアを閉めて出ていった。
その言葉はあまりにも遅すぎた。もう私は同じ場所で直哉を待ったりしない。