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無垢を求めた夫と、離婚を決意しました
結婚前夜、私・清水澪(しみず みお)は丸一日監禁された。 救い出されたあと、周囲は口をそろえて言った。監禁された女は、もう傷物なのだと。 それでも牧野諒(まきの りょう)は、そんな私を一生愛すると誓ってくれた。 私は信じていた。彼だけは違うのだと。 けれどある日、偶然耳にしてしまった。 「昔は守ってやりたいと思っていた。でもいつからか……彼女のことが、どこか汚れて見えるようになった」 その瞬間、私は気づいてしまった。彼がもう3ヶ月、私に触れようともしなかったことに。 やがて彼は、私ではなく、私に似た目元をした清純で綺麗な女子大生を選んだ。 ふくらみはじめたお腹にそっと触れ、私は呟く。 「ごめんね、赤ちゃん」 私を汚いと思う男に、この子を望む資格なんてない。
チャプター (1)
第1章
結婚前夜、私・清水澪(しみず みお)は丸一日監禁された。
救い出されたあと、周囲は口をそろえて言った。監禁された女は、もう傷物なのだと。
それでも牧野諒(まきの りょう)は、そんな私を一生愛すると誓ってくれた。
私は信じていた。彼だけは違うのだと。
けれどある日、偶然耳にしてしまった。
「昔は守ってやりたいと思っていた。でもいつからか……彼女のことが、どこか汚れて見えるようになった」
その瞬間、私は気づいてしまった。彼がもう3ヶ月、私に触れようともしなかったことに。
やがて彼は、私ではなく、私に似た目元をした清純で綺麗な女子大生を選んだ。
ふくらみはじめたお腹にそっと触れ、私は呟く。
「ごめんね、赤ちゃん」
私を汚いと思う男に、この子を望む資格なんてない。
第1話
ある荷物をきっかけに、私は諒を疑い始めた。
それは、彼が買ったばかりのメンズ香水だった。
出会ってから7年。一度だって、彼が香水をつけているところを見たことはない。
私はその香水を手にしたまま、しばらく立ち尽くしていた。
「最近暑くて汗をかくだろ。ゼミで学生と会うとき、少し気になってな」
諒はそう言って、何でもないことのように、私の手から香水を受け取った。
「そうだ、澪。夕飯はもう作ってあるから、先に食べていてくれ。今夜は研究で遅くなるし、帰れないかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
夜遅くまで学校に残ると言うのは、これでもう5回目だった。
嫌な予感を振り払えないまま、私は寝室へ戻り、諒のラインを開いた。
彼のアカウントはパソコンにログインしたままだ。きっと、ログアウトし忘れたのだろう。
トーク一覧を下へスクロールしていく。なぜか、その名前にだけ目が留まった。
法学部4年生の天野ひなた(あまの ひなた)。
背筋がひやりとした。震える指で、そのトークを開く。
残されていたやり取りは、たった2件だけだった。
一件目は、彼女からのメッセージ。
【牧野先生、今夜も7時に校門に来てくださいね。新しく焼き肉のお店ができたんですけど、先生と一緒に食べに行ってみたくて】
返信は、たった一言のようにそっけなかった。
【7時に着くよ。試しに食べてみようか】
それ以前の履歴は、ひとつ残らず消されていた。諒は毎日、欠かさずトーク履歴を消していたのかもしれない。
ひなたのインスタを開く。昨夜投稿された写真が目に入った。
街灯の下に伸びた2つの影。背の高い影と、低い影。男と女。その男の影を、私は見間違えるはずがなかった。
添えられた言葉は、こうだった。
【今日、彼に告白した。彼は受け入れてもくれないし、ちゃんと断ってもくれなかった。私がまだ若いから、私のことを縛りたくないんだって。でも、先生は私の勇気を甘く見ている。
牧野先生、もう一度告白します。拒否は禁止!絶対にOKしてくださいね!】
その投稿は、どう見ても諒に向けたものだった。
昨日、彼は同窓会に行くと言っていたのに。
さらにスクロールすると、彼女自身の写真が目に入った。目元が私によく似た、綺麗な女の子だった。
閉じようとした、そのとき。
彼女のフィードに、新しい投稿が追加された。
【これが私のファーストキス。牧野先生、ちゃんと最後まで責任取ってくださいね~】
写真はない。
たったそれだけの言葉なのに、心を鋭く抉られたようだった。息が詰まり、胸の奥がきりきりと痛んだ。
信じたくない。けれど、確かめずにはいられない。震える指で、諒に電話をかけた。
相手はすぐに出た。
「どうした、澪?」
私は声が震えないよう、必死に平静を装う。
「ううん、なんでもない。もう終わったのかなって思っただけ」
「まだ終わらないよ。今夜はチームで徹夜になりそうだから、帰れない。澪は待たなくていいよ。眠くなったら先に寝ていて」
「うん」
第2話
電話を切った後も、胸の奥にはぽっかりと穴が空いたような虚しさが残っていた。心なんてもう空っぽになったはずなのに、その奥だけがずきずきと痛み続けていた。
私はひなたのタイムラインを、何度も遡って見返した。そこでようやく気づいた。彼女と諒の曖昧な関係は、もうけっこう長く続いていたのだ。
彼女は諒のゼミ生だった。
毎日のようにメッセージを交わし、キャンパスを並んで歩き、大学帰りには近くの店へ立ち寄っていた。
諒は彼女にだけ妙に甘かった。課題を個別で見てやり、レポートを何度も添削し、採点も明らかに甘かった。学内奨学金の推薦にまで口を利いていたらしかった。
投稿の端々から、ひなたのときめきが滲んでいた。熱に浮かされたような、恋する者だけが纏う空気だった。
私がいなければ、2人はもっと自然に恋に落ちていたのかもしれない。
私は彼女の写真を何度も見返した。明るく笑う姿は、まるで陽だまりのようで、塞ぎ込みがちな私とは正反対だった。諒が彼女に惹かれた理由も、分からないでもない。
じめじめとした場所に長くいれば、誰だって明るいほうへ惹かれてしまう。
パソコンを閉じても、眠気は少しも来なかった。その夜、諒は結局、朝まで帰ってこなかった。
翌日の午後になって、ようやく諒は帰ってきた。
「なあ、何持っていると思う?」
玄関を開けるなり、諒は目を輝かせて私を見た。
「……なに?」
私はできるだけ素っ気なく返した。
すると諒は背中に隠していた手を差し出した。そこにあったのは、花火大会のチケットが2枚。
「花火師・早川駿(はやかわ しゅん)の渾身の一作だよ。ずっと見たいって言ってただろ。昨日、発売の時間に張り付いて、やっと取れたんだ。しかも特等席」
私は花火が好きだ。ずっと前から、今回の大作を楽しみにしていた。諒はもうそんなこと、とっくに忘れていると思っていた。
なのに、その2枚のチケットを受け取っても、心は少しも弾まない。
こういうとき、男って優しくなる。後ろめたいことがあると、埋め合わせをするみたいに、いつもよりずっと優しくなる。
自分の罪悪感を、少しでも軽くしたいから。
「どうした?行きたくないのか?」
私は無理やり口元を上げた。
「……行くわ」
その日の夜、諒は親友の江原晃一(えばら こういち)と、その妻の葵(あおい)まで誘っていた。
やっぱり、と思った。浮気をしている男が、妻と2人きりで過ごしたがるはずがない。
葵は私の幼馴染だ。だから私は、ほとんどずっと彼女と腕を組んで歩いている。
「どうしたの、澪。なんか全然楽しそうじゃないけど」
葵が心配そうに私の顔を覗き込む。
私は小さく笑った。
「そんなに分かる?」
「分かるに決まってるでしょ。澪って、機嫌悪いと黙り込むもん」
私は前を歩く諒の背中を見つめる。晃一と楽しそうに話し込みながら、絶え間なく言葉を交わしていた。
こんなに分かりやすいのに、どうして一番近くにいるはずの夫だけが気づかないのだろう。
それとも、気づいていても、もうどうでもいいのだろう。
急に鼻の奥がつんとした。これ以上ここにいたら、本当に泣いてしまいそうで、私は気づかれないようトイレへ逃げ込んだ。
しばらくして、ようやく呼吸が整った。そっと外に出た瞬間、隣の喫煙スペースから、聞き間違えるはずもない声が聞こえた。
「お前、澪さんのこと本気で好きだったんじゃないの?なんで急にゼミの学生に手を出してるんだよ」
少し間を置いて、煙を吐き出す気配がした。続いて、諒のしゃがれた声が響いた。
「昔は、守ってやりたいって思ってた。でも、いつからか……彼女のことが、どこか汚れて見えるようになった」
第3話
聞き間違えるはずもない声だ。長い時間を経て、ようやく彼の本音を聞いた気がした。
私の手は、勝手に震えていた。
4年前。諒と結婚式を翌日に控えた夜、私は拉致された。
清水グループの令嬢と知るや否や、犯人は身代金の要求額を吊り上げた。身代金は最終的に10億円にまで跳ね上がり、父が奔走した末、私が解放されたのは翌日のことだった。
週刊誌は、そのたった一昼夜の出来事を面白おかしく取り上げ、好き勝手に書き立てた。複数の男に暴行されたかもしれない。もう汚れた女だ、と。
私は何度も説明した。金目当ての拉致で、暴行はなかったのだと。それでも噂は止まらなかった。野火のように広がって、街中を覆い尽くした。
あの頃、私は世間の悪意の真ん中にいた。
ある日、買い物に出た先のショッピングモールで、大勢の記者に囲まれた。カメラとマイクが、一斉に私へ向けられた。
「清水さん、犯人のもとで何があったのか、詳しく聞かせてください」
「相手は複数だったんですか?」
「今も事件の影響は残っていますか?」
私は為す術もなく、立ち尽くすことしかできなかった。そこへ諒が駆けつけた。彼は私を背に庇い、マイクを奪い取るようにして言い放った。
「澪が何を経験しようと、僕にとって彼女は少しも汚れてなんかいない。僕は澪を一生愛し抜く、一生守り抜く。彼女を貶める者は、誰であろうと許さない」
親族も友人も、傷物の女を娶ることはないと彼を止めた。それでも彼は反対を押し切り、盛大な結婚式を挙げてくれた。
だから私は、信じていた。彼は本当に、気にしていないのだと。
「あの時も言っただろ。格好つけるなって。いや、お前が悪いわけじゃないよ。そういうのは、どんな男でも引くって」
諒の重いため息が聞こえる。
「僕も正直、知りたいんだ。あの夜、何人いたのか。でも澪は、その話になるとひどく嫌がる。少しでも触れようとすると、『何もされてない』ってムキになって否定するんだ」
泣き崩れると思っていた。けれど、涙は出なかった。むしろ、怖いほど静かだった。
私は足音を忍ばせ、その場を離れた。
歩きながら、気づいてしまった。諒はもう3ヶ月、私に触れていない。
結婚したばかりの頃、彼は私を安心させるように、執拗なほど身体を求めてきた。まるで、何も気にしていないと示すかのように。一晩に何度も。
それが少しずつ減っていき、この3ヶ月は、一度もない。
私は頭の中で時期をたどった。ひなたが彼のゼミに入ったのは、ちょうど3ヶ月前だった。
第4話
諒と晃一が戻ってきたとき、私と葵はすでに花火がよく見える場所を確保して、待っていた。
諒は人混みを縫うようにして戻ってくると、当然のように私の隣へ腰を下ろした。
上着を脱いで私の肩にかけ、相変わらず優しい声で笑う。
「冷えてきたのに、そんな薄着じゃだめだろ。風邪でも引いたらどうするんだ」
私は微笑んだ。
「花火、もうすぐ始まるよ。花火に願い事をすると叶うんだって」
諒は指先でそっと私の鼻先に触れた。
「君は本当にそういうのを信じるんだな。で、何を願うんだ?」
私は首を振る。
「言ったら叶わなくなるから」
花火大会が始まる15分前、晃一が突然諒を呼んだ。葵が喉が渇いたと言うので、2人でドリンクを買ってくると言った。
売店はすぐ近くにある。時間にもまだ余裕があった。諒は足早についていった。
彼が離れたあと、私は隣に置かれたままのスマホに気づいた。次の瞬間、画面が光る。表示されたのは、ひなたからのメッセージだ。
【牧野先生、研究室が停電したんです。怖いです】
私はスマホを手に取り、メッセージを一目見て通知を消した。画面を落とし、そのまま静かに伏せる。
お願い、今夜だけは――諒を、私のところに返してくれないか。
そんなことを、私はひなたに願っていた。自分でも呆れるほど、みっともなく。
諒はすぐに戻ってきた。私が好きなフルーツティーを買ってきてくれた。
「よかった。間に合ったな。あと5分だ」
隣には、伏せられたままのスマホ。画面が見えなくても、その存在ばかりが頭から離れない。
いつ着信音が鳴ってもおかしくない。そう思うだけで落ち着かなくなる自分が、ひどく滑稽で、ひどく哀れだ。
今だけは、どうか邪魔しないでほしい。夫がまた彼女のために、私を置いていきませんように――私はそんなことを願っていた。
馬鹿げているとわかっている。自分でも信じられない。いつから私は、こんなふうに誰かに縋る女になってしまったのだろう。
時間は刻一刻と過ぎていく。花火が始まる前のざわめきに、周囲の期待が少しずつ膨らんでいくのが分かる。
諒は笑いながら、フルーツティーを私の手に渡した。ひやりとした感触が、指先に染み込んだ。
彼はごく自然に私の肩を抱き寄せ、空を見上げた。
「もうすぐ始まるよ。澪、願い事は決まった?」
その声は、あまりにも優しかった。さっき喫煙スペースであんなことを言った男と、同じ人とは思えないほどに。
私は彼の胸にそっと寄り添った。馴染んだはずのぬくもりなのに、もう昔みたいに安心できなかった。
あと2分。
胸の奥で、何かがずっと嫌な音を立てている。
そして――
ピピピッ……
最後のカウントダウンを裂くように、着信音が鳴った。
第5話
私の身体は、自分でも気づかないうちに、かすかに強張っていた。呼吸が止まる。
諒はほとんど反射的にスマホを手に取った。それから、少し気まずそうに私を見る。
「ちょっと出るね。学校の緊急連絡かもしれない」
そう言いながら、さりげなく身体の向きを変える。私から画面が見えないように。
次の瞬間、彼の表情が変わった。やわらかかった目元が強張る。眉が寄る。隠しきれない焦りと心配が、その顔にははっきり浮かんでいた。
そんな顔を、私はもうずっと見ていなかった。
少なくとも、今のそれは私のためじゃない。
彼は勢いよく立ち上がった。
「澪、悪い!叔母さんから連絡があって、いとこが事故に遭ったらしいんだ。今、病院に運ばれたみたいで、すぐに行かないと――」
……ほら。なんて完璧な言い訳なんだろう。緊急事態で、筋が通っていて、ここで疑う私のほうがわがままみたいに思えてしまう。
彼が背を向けかけた、その瞬間だった。気づけば私は手を伸ばし、彼の手首をぎゅっと掴んでいた。
指先が冷たい。小さく震えているのが、自分でも分かる。
「諒」
情けないくらい、弱々しく。
「あと少しだけでいいの。花火、もうすぐ始まるよ……終わってからじゃ、だめ?2分だけでいいから」
私は顔を上げ、彼を見た。声に滲んだ必死さを。今にもこぼれそうな絶望を。ほんの少しでも、気づいてほしい。
けれど。彼には、何ひとつ届かなかった。
彼の心が向いている先は、もう私じゃない。
彼は落ち着かない様子でスマホに目をやり、それから私を見た。
「澪、わがまま言わないで。人命にかかわるんだ。いい子だから、ここで見てて。終わったら晃一たちが送ってくれるから。落ち着いたら、すぐ帰る。ね?」
次の瞬間。彼は、ぐいっと私の手を振り払った。
私の指先が、空を掻く。何ひとつ、引き止められないまま。
彼は迷いなく背を向けた。そして、そのまま早足で雑踏の中へ消えていく。
一度も、振り返らずに。
彼の背中が人混みに呑まれた。まさにその瞬間――
ヒューッ――ドンッ!
最初の大きな花火が、夜空へ打ち上がった。鮮やかだ。残酷なくらい、綺麗だ。
色とりどりの光が、一瞬で空いっぱいに咲き広がる。その光は、迷いなく去っていく彼の背中まで照らした。
けれど、どれほど眩しく照らしても、彼の足を止めることはできなかった。
耳をつんざくような歓声が、あちこちで弾ける。
私はただ、呆然と空を見上げていた。
花火はあんなにも綺麗に咲いているのに、私の視界は涙で滲んで、揺れて、歪んで、もう、何も見えなかった。
熱い涙は、とっくに溢れている。頬を伝って、止まらないまま落ちていく。
諒。この花火を、私は3年も待っていた。
花火に願い事をすると叶うのだと、私はずっと信じていた。
あなたと、白髪になるまで一緒にいたいと願っていた。
なのに……あなたは先に、私の手を離した。
隣にいた葵が、ようやく泣いている私に気づいて、慌てたようにその手を握り締めた。
「どうしたの、澪。具合でも悪いの?」
私はそっと涙を拭い、首を横に振った。
「大丈夫……明日、空いてる?病院に付き合ってほしいの」
そう言って、私はそっと、まだ少しだけ膨らみ始めたお腹に手を当てた。
赤ちゃん、ごめんね。
そんな目で私を見る人の子を、もう産みたいとは思えない。